最低制限制度

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トピックス

 このページは、団地内の主な出来事やお知らせ、各組合員企業の新しい商品、これまでの主な出版物などを紹介するオールラウンドのトピックス・コーナーです。


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2009年



2010年のニュース

印刷団地の39期総会終了

■印刷団地は5月25日、第39期通常総会を開き平成22年度の事業計画や収支予算などを決定しました。また、役員の選任も行われ副理事長に光文堂印刷社長の外間政春氏を新しく選出しました。宮城剛理事長(サン印刷社長)は、再任されました。前副理事長の久場融氏(高速印刷)は退任しました。
 総会の後、各社社員も参加し懇親会を開き、新しい年度の事業開始にあたって団地組合の結束を誓いました。宮城理事長は、「印刷機器や業界を取り巻く数々の変遷の中で、新しい情報をいち早くキャッチして対処し今日の各社、組合がある。今後もより厳しい環境が予測されるが、団地組合の団結で乗り切っていきましょう」と挨拶しました。
 事業としては、官公需適格組合の更新年度を通じ、上部団体や連絡協議会と連携して受注事業の推進をはじめ、社会貢献の一環として「文字・活字文化の日」を記念した「第5回県内中学高校生意見文・小論文コンクール」事業を引き続き実施します。

 役員選任は、次の通り。
 理事・宮城剛、外間政春、久場ふさ子(専務)、小濱保(グローバル印刷)、大嶺亮一(高速印刷)、呉屋政彦(うるま印刷)、外間政朝(沖縄製本)。監事・福山保(福山商事)、新垣智(沖縄県印刷工業組合)。(2010・5・28)
   

1月4日から業務スタート
今年もよろしくお願いいたします

■新年は1月4日から業務をスタートいたしております。寅年の今年は、昨年にもましてパワー全開で事業推進に取り組んでまいりたいと思います。旧年同様によろしくご支援をお願い申し上げます。





■沖縄県の印刷請負契約で最低制限価格制度がスタート

印刷業界が念願のひとつにしていた請負契約のおける最低制限価格制度が新年の1月から実施されました。印刷物の減少と超低価格などで厳しい受注競争下を強いられていた印刷業界にとりましては、企業存続に望みを託す公正な制度改革と大きな期待をかけています。

 以下に沖縄県から発表された要領を掲載いたします。各組合員及び印刷企業の皆さんにご活用いただきたいと思います。



沖縄県印刷の請負契約に係る最低制限価格制度事務処理要領


(趣旨)                                    
1条 この要領は、沖縄県出納事務局物品管理課が発注す る印刷物の請負契約について、契約の適正な履行及び公正 な取引秩序の確保を図るため、最低制限価格を設ける場合
の事務処理について必要な事項を定めるものとする  


(適用する契約)     
2条 この要領において適用される契約は、競争入札によ る契約で予定価格が100万円を超えるものについて適用す る。ただし、特殊印刷物の契約には適用しない。

2 特殊印刷物は、単価契約、議案書等で納期が短期間の   もの、フォーム印刷、地図・マイクロ印刷、シール印   刷、製本等とする。

(最低制限価格の設定方法)

3条 最低制限価格は、予定価格の十分の七から十分の九 の範囲内で定めた額とする。


(落札者の決定)     
4条 最低制限価格を下回る価格による申込みが行われた 場合は、当該申込みをした者を落札者としないものとし、 予定価格の制限の範囲内の価格で最低制限価格以上の価格 をもって申込みをした者のうち、最低の価格をもって申込 みをした者を落札者とする。


(最低制限価格設定の周知)
5条 最低制限価格を設定したときは、予定価格調書(別 記様式)に当該競争入札に係る最低制限価格を記載すると ともに、競争入札に参加しようとする者に対し、当該競争 入札に関し、最低制限価格が設定されていることを周知す るものとする。

(最低制限価格の表示)
6条 契約担当者は、予定価格を記載した書類に、最低制 限価格等を併記するものとする。


(最低制限価格制度の対象外)
7条 最低制限価格を設定することが不適切と認められる 場合には、最低制限価格を設定しないことができる。


附則

この要領は、平成2314日から施行する。







■明けましておめでとうございます
昨年中は、官公需適格関連、文字活字文化大賞のコンクールなど何かとご協力をいただきました。改めて、感謝申し上げます。本年もご支援、ご協力のほどよろしくお願い申し上げます。




2010年のニュース


第5回文字・活字文化大賞

玉城さんら入賞者を表彰

晴れやかに笑みも



晴れやかに笑顔の入賞者たち



玉城さんら入賞者を表彰

■第5回文字・活字文化大賞沖縄県青少年意見文・小論文コンクール(主催・沖縄印刷団地協同組合、沖縄タイムス社、共催・沖縄県、沖縄県教育委員会)の表彰式が11月27日(土)、南風原町の印刷団地ホールで開かれました。中学生意見文で大賞の玉城愛美さん(久辺中学2年)、高校小論文で大賞の仲本明希さん(普天間高校3年)ら入選以上の23人へ賞状と副賞が贈られました。
今年は昨年の倍以上となる中学94点、高校49点の合計143点の応募作品が届きました。県内の中学、高校国語教育研究会のご協力があり、沖縄・宮脇書店さんからの全応募者への図書カードプレゼントも励みにつながった思われます。
 副賞として大賞に1万円相当、優秀賞に5千円、優良賞に3千円、入選に2千円相当の図書カード、さらにニート、鉛筆、ボールペンが贈られた。また、入賞作品集も送呈。なお、作品集は、県内の全ての中学、高校にもプレゼントして送付されます。
 表彰式には、主催の沖縄印刷団地協同組合・宮城剛理事長、沖縄タイムスの長元朝浩・論説委員長、共催の沖縄県文化環境部・真栄城香代子統括監、沖縄県教育委員会の大城浩統括監が出席し、それぞれ入賞した生徒の皆さんを激励しました。
 講評で津覇實明審査委員長は、「例年の倍以上の作品応募があり、本賞の成長をうれしく思う。ハイレベルの作品が多く、気の早い私は、次年度のさらなる応募に期待が高まっています」とこの事業を評価しました。

次は入賞作品です。末尾に津覇審査委員長の講評追加

文字・活字文化大賞意見文・小論文コンクール

 [中学生意見文の部]

文字・活字文化大賞(最優秀賞)

「詩に思いを込めて」

名護市立久辺中学 二年  玉城 愛美

私は幼稚園の頃に父を亡くし、小学校四年生まで伊江島の祖父母に育てられた。祖父母の大きな愛情に包まれて、何不自由なく育った。でも、小学校五年生の時に、現在暮らしている児童養護施設「なごみ」で暮らす事になった。寂しさと不安でいっぱいだった。私は、幼い頃から人に自分の気持ちを伝える事が苦手で、いつも自分の中にためこんでいた。学校でも自分の意思をうまく伝える事ができず、悩む日々が続いていた。こんな内気な自分を変えたい、そう思うもう一人の自分がいつもそばにいた。

 そんな私が詩を書き始めたのは中学一年の時だった。一枚の紙の切れ端に詩を書いた。なぜか楽しくて心が楽になった。三篇の詩ができた時、「なごみ」の先生に読んでもらった。先生は私の詩をとても褒めてくれた。その先生の薦めもあり、私は毎日のようにノートに詩を書き学校の先生にも見せた。学校の先生も私の詩を褒めてくれ、私の詩にコメントを寄せてくれた。私はまた勇気が出て益々詩を書くことが好きになり、落ち込んだ時、感動した時、その思いを詩につづった。

 ある日コメントを書いてくれる先生から詩集をもらった。仲宗根正満さんが書いた「かたつむりの詩」とう詩集からは小さな生き物たちに対する愛情が感じられた。仲宗根さんは不自由な体でもたくさんの詩を書いていた。私はその詩を読んだ時、涙が出るほど感動した。その詩は、「つらくても誰かがそばにいてくれるよ」と私に語りかけてくれているようだった。私は今までつらい事とかたくさんあったけど、この詩集に出会い、勇気と希望をもらった。そして私も人を感動させるような詩を書きたいと思った。

 私はこれまで出会った人たちに、詩をプレゼントするようにもなった。もらった人はみんな喜んで感動してくれる。私はそれが嬉しくてたまらない。これからも私の詩を色んな人たちに読んでほしいと思っている。

 今年、私たちの学校に2人の教育実習生が来た。たった三週間の出会いだったけど、実習最後の日、私は二人に心を込めて手紙を書き、自作の詩を贈った。二人ともとても喜んでくれた。「感動したよ。これからもいっぱい詩を書いてね」と言われた。一人の実習生からは詩集をもらった。とても嬉しかった。口下手で思いを伝えきれない私が詩を通して心を通わせる事が嬉しかった。「みんなに自分の感性をどこまで伝えられるかな」という気持ちになり益々詩を書く事が好きになった。

 私は詩人の「金子みすず」が大好きだ。みすずの詩を読むと、私と似ているところがあったり、「こんな事もあるんだあ」とか、不思議な気持ちになる。私は、みすずのような詩人になりたいと思っている。

 人は誰にだって言えない悩みがある。そんな時、自分の思いを詩に書くと、気分がすっきりする。書く事が苦手な人でも、自分の思った言葉どおりに書けば自分の心を相手に伝えることができる。私は最近大好きだった祖父を亡くした。悲しくて悲しくて学校へも行けない日が何日も続いた。でも、私は今、天国の祖父に詩を書いている。「じいちゃん、私頑張るよ」という詩を。書く事で私は祖父の死を受け止められ前向きに考えられようにもなった

 私は自作の詩によく「輝き」という言葉を使う。そうすると、なんだか私にも輝きが訪れてくるような気がするから。すぐに弱音を吐いてしまう私だけど、詩を書くことで前向きになれる。詩を書いていると、本当にやりたい事や素直な自分を見つけられる。いつか私が大人になった時、私の詩で誰かが元気になってもらいたい。そして笑顔になってもらいたい。私はこれからも詩を書き続けたい。いつか詩人になれる日を夢みて。

県知事賞(優秀賞)

「新聞について」

    沖縄市立沖縄東中学  三年 仲村 愛実

 現代は、いろいろなマスメディアから情報が手に入ることのできる時代になってきましたが、新聞について皆さんはどう思いますか。だけど、新聞のすばらしさが今、感じられなくなってきているように思います。

 そこで、私は、新聞について他のメディアと比較して考えてみました。

 現代の情報源は、多様化しており、新聞のほかに、テレビ・ラジオ・インターネット・携帯電話があります。たとえばテレビは、以前はNHKと民間放送だけだったのが、今では、そのほかに衛星放送・CS放送・ケーブルテレビとチャンネルが増えて、ニュース専門や映画専門など一つのジャンルに絞った放送局が現れてきました。

 インターネットは、登場から約十五年経ち、画像と文字だけだったのが、技術の進歩に伴い、動画が見られるようになり、個人でも簡単にブログなどで情報を発信できるようになりました。しかし、その裏で、インターネットを使っての犯罪も増えてきています。

 それらに対して、新聞は、写真のカラー化や文字を大きくしたりして読みやすくするために努力しています。しかし新聞を読まない人は、増えてきています。

 新聞を読まなくなった原因は、インターネットの普及にあると思います。なぜなら、情報を伝える意識の高い新聞に対して、参加型のインターネットに魅力を感じている人が増えているからだと思います。また、新聞に自分が知りたい情報が掲載されていないなどの理由が挙げられます。

 ところで、それぞれのメディアの、信憑性はどうでしょうか。インターネットの情報は本当でしょうか。

 インターネットは誰が発信者なのか分からない世界です。ブログ、掲示板の発言が、どれほどの責任を持っているのか、わかりません。従って、このような内容の真偽が定かではないものは、慎重に判断していく必要があります。

 それに対して新聞は、記事に記者の署名があります。これは言論に対して、記者、新聞社の責任の現れです。加えて、たくさんの人たちに、原稿の誤りや人を傷つける表現はないかをチェックされて、ようやく新聞は印刷されるのです。そのように信頼されるメディアだからこそ、安心してニュースを知ることができると思います。

 さらに、新聞を読むことで、いろいろな知識を得ることができます。正しい日本語で書かれているので、国語の読み書きや、漢字を読む力を伸ばすことができるのです。さらに、新聞は紙でできているので、切り取って保存することができます。また、テレビでは紹介されない地元の情報が詳しく紹介され、身近に地域を感じることができると思います。

 もちろん、新聞にも欠点があります。それは、最近の不景気で一日に一回しか発行出来ず、重要な情報だと遅れる場合があります。それと、難しい言葉で書かれているので、内容を理解するのに根性と時間がかかります。

 だから私は、もっと若い人で新聞を読む人が増えていくように、多様な生活習慣に密着させた記事の充実を図り、ニュースの分かりやすい解説を増やした方がいいと思います。そうしたら、テレビのニュースを見て、理解できなかった人が新聞を見て分かるようになると思います。私は、新聞がすばらしいメディアであることに改めて気づきました。皆さんに、どんなに小さく些細な記事でもいいので読んでほしいと思います。

 新聞を読んで、自分の知識を飛躍させる。その繰り返しが、私たちが社会で活躍するときに役に立つと思います。私は、これからも新聞で身近に起こっている出来事や時事問題を読み、考えることを続けていきたいです。

県教育長賞(優秀賞)

「本の魅力」

名護市立久辺中学 三年 山城 南希

 中学三年の現在、本を読む事が大好きな私は、幼い頃は本を読む事があまり好きな方ではなく、字を読む事も得意ではありませんでした。そんな頃、仕事で忙しい中、母は毎晩、「読み聞かせ」をしてくれました。母が私の傍らで読んでくれる時間は何ともいえない安心感があり、私はしだいに本が好きになっていきました。声を低くしたり手振り身振りのジェスチャーを加えながら「読み聞かせ」をしてくれた母。小さな頃の私のお気に入りは、「とりかえっこ」という絵本で、色んな動物の鳴き声を母が語ってくれるのがとても楽しみでした。しだいに自分自身でも本が読めるようになった私に、今度は叔母が私の誕生日に本を買ってきてくれました。初めて絵本をもらった時は、とてもうれしくて、何度も何度も読み返しました。叔母が贈ってくれたのは「パムとケロのおかいもの」という絵本で字が少なく絵が中心の絵本でした。字が少なくても、幼い頃の私は、絵だけで物語を想像する事ができました。「バムはこう思っているのかな」とか、自分で物語を作っていました。最初は、絵本をプレゼントしていた叔母も、私が歳を重ねるにつれて、絵がなくても漢字が多い本を贈ってくれるようになりました。私はますます本の世界の魅力にはまり、分厚い本でも読めるようになっていました。また、私の姉たちも読書が好きで、暇があれば本を手にしていました。姉妹で本の話で盛り上がり、今では互いに気に入った本を紹介しあっています。本を介して家族の絆が深まったようにも感じます。

 そんな私が、感銘を受けた一冊の本があります。それは、「すすにまみれた思い出」という本です。この物語は、主人公の男の子が白人と黒人の間にできた子供というだけで、強制的に母親と離れ離れにさせられる内容です。この本を読み終えた時、もし自分がそうだったらと考えると胸がしめつけられる苦しい思いになりました。親がいるからこそ子供がいる、「家族の絆」について改めて考えさせる私の「愛読書」になりました。その他にも、「メメント・モーリ」という本は、「死」について書いてありました。「死を想えば生が見え、生を想えば死が見える。」という言葉が強烈に私の心に残っています。確かに、死を考える「自分は今生きているんだ」と実感します。この言葉は、私に生と死の在り方について教えてくれました。

 本は、今まで私が分からなかった事など、色々な事を教えてくれます。作者や著者が自分の思った事や考えた事を伝えられる「本の力」はすばらしいと思います。本には、フィクションやノンフィクションがありますが、どれも読む人に感動や刺激を与えます。

 現代社会は、活字を読む事がとても減ってきています。インターネットやテレビ等からすぐにでも情報が入ってくる時代ですが、本には、テレビでは伝えることが出来ない魅力があります。「ケータイ小説」も良いとは思いますが、やはり私は自分の手で本を手にし、パラパラとページをめくりながら自分一人の大切な時間を持つ事が好きです。

 今考えてみると、周りの友達が、誕生日にオモチャやゲームをもらう中、母や叔母は私にいつも本を贈ってくれました。二人とも、幼い私に、果てしなく広がる本の世界のすばらしさを伝えたかったのでしょう。何ものにも代えがたい「言葉のプレゼント」をもらった私。そのおかげで色んな事を学ぶ事ができました。将来子供ができたら、私は自分の子供に色んな本を読み聞かせていきたいです。そして、いつも本の話で盛り上がるような、そんな家族でいられたらと思います。今の私にとって本は大好きな存在で「知恵の泉」です。私は、自分自身を高めるために、もう一人の自分と出会うために、生涯、私の「読書ライフ」を持ち続けていきたいです。

沖縄印刷団地協同組合賞

「文字」のあたたかさ

糸満市立糸満中学  二人 岩崎 心

 今日の日本では、パソコンやケータイが私たちの欠かせない日常品となってきた。年賀状や手紙をはじめ、普段の何気ない会話でも、わたしたちはこれらの「機械」にたよってきている。手書きのものを見るのがめずらしくなってきた程だ。やはり文字には個性があるから、手書きの方が私は好きだ。

 昔から、文字には不思議な力があると言われてきた。文字には、書いたその人の気持ちや人格が表れるのだそうだ。わたしはつくづくそう感じることがある。私は書道を習っている。部活で疲れたまま書いていたら、書道の先生に「心、大丈夫ね?文字に元気がないよ、心らしくない。」と言われるし、嬉しいことがあってウキウキした気持ちで書くと「今日は元気がいいね。良いことがあったの?」と言われる。自分ではいつものように書いているつもりでも、自然とその時の気持ちが文字からにじみでてくるのだ。文字とはすごいなと改めて思った。文字と書道の先生には、きっとうそがつけないだろう。

 わたしたちは、何百年も前から「文字」を使うことで、相手に自分の気持ちを伝えたり、表現したりしてきた。他の動物たちが持っていない、人間だけの特権とも言えるであろう。わたしたちが今、当たり前に見て、書いて、読んでいる文字、一つ一つにも意味が込められていると思うと、文字というものがなんだか新鮮に感じられると思わないだろうか。

 文字も、一人一人の個性のうちに入るとわたしは思う。文字というのは、書いた人の人格が表れるという。確かに、いつも元気いっぱいの友達は、とても大きく堂々とした文字を書くし、少しひかえめな性格の友達は、豆つぶのように小さな文字を書いていた。人格が表れるというのは本当なのだとおどろいた。こんなところから、わたしは相手に気持ちを伝える際は「手紙」と言うものを使った方が良いと思う。もちろん、携帯やパソコンからのメールも文字が統一されていてきれいであるし、自分でかわいい絵文字を入れて工夫したりと楽しいではあるだろう。だが、せっかく個性というものを持っているのだから、手書きで自分らしさすぉ出してみてはどうだろうか。気持ちも伝わりやすいであろう。また、もらった方も嬉しく思うはずだ。自分のためにわざわざ手間をおしんで書いてくれたと思うと悪く思う人はいないはずだ。実際わたしも手紙をもらうと嬉しい。メールよりも親近感がわいてくるのだ。何だかあたたかい気持ちになってくる。あなたはどちらが好きか。

 便利になった今の時代、わたしたちが必ず毎日、見たり、書いたり、読んだりする「文字」の大切さについて本気になって考えなくてはいけないのではないだろうか。これからどんどん携帯メールやパソコンが発達していく中で、わたしたちはどれだけ、「文字」というものを活かしていけるだろうか。現代の日本の人々は、機械的に並べられた、何の感情もこもっていない文字を目にすることが多い。しかし、こんな時代だからこそ、改めて手書きの文字のありがたみを知る良いチャンスなのではないだろうか。また、言葉よりも文字の方が、気持ちが伝わりやすいこともある。ぜひ、あなたも、大好きな人、家族、友人、恋人などに言葉ではない「文字」という一つのコミュニケーションの方法で、想いを伝えてみてはどうだろうか。そして、文字の大切さやあることの意味、役割を考え直してみてはどうか。

沖縄タイムス社賞(優良賞)

「メールのある生活」

西原町立西原中学 三年 吉岡 聖章

 今の僕たちの身の回りには、多くのメディアが存在しています。そのメディアとは、テレビ、インターネット、携帯電話など様々です。しかしそのメディアは、僕たちの生活をよい方向にだけ動かしているのでしょうか。

 僕は普段の生活から、多くの場面でメールをしています。親や友達との連絡やメルマガの配信など、僕の日常には欠かせないものとなっています。もしかしたら、皆さんの日常でも欠かせないものとなっているのかもしれません。多くの企業でも使用され、今や社会を動かすものの一つとなっています。

 僕はそのメールに関する体験を二つしました。その体験から考えさせられ、この作文を書くことにしました。

 一つ目の体験は、メールを使い始めたばかりのある日、僕の携帯に一通のメールが届いたことから始まります。それは全く見覚えのないアドレスからのメールでしたが、気になったので見てみました。「懸賞に当選しました」などと書かれ、全く身に覚えがないものでした。その時は、何かの間違いなのだろうと思い、無視していましたが、日に日に増えてくるそのメールが少しずつ怖く感じられるようになりました。毎日のように来るメールから逃げるようにアドレスを変え、迷惑メールなのだとわかりつつも、少しばかり恐怖心がありました。

 二目の体験は、僕のメールがきっかけとなり、とても些細なことで友達とけんかをしてしまったことです。その原因は友達が、僕の送信したメールの意味を間違えてとらえてしまったことでした。ただそれだけだったのに、お互いなかなか謝れずにいました。もちろん、どちらが悪いとかはないと思います。もし、直接話をしていたら、ただの笑い事ですんでいたでしょう。

 僕は考えてみました。メールは、安全で僕達に良いことだけを与えてくれているのでしょうか。いいえ、きっと違うはずです。一番目の例では、メールを悪用して多くの人を騙したり、お金を振り込ませたりするのです。良い方向にもっていくどころか、むしろ悪い方向に動かしています。二番目の例では、お互いの気持ちが伝わりにくいというデメリットがありました。僕もとらえ間違えることはよくあります。

 全てのものはいい面もあり、悪い面もあるのは当然のことです。メールはなにげない会話や緊急時の連絡なお、様々な場面で活用することができ、とても便利です。しかし、便利であると同時に危険性が伴うと思います。僕が勘違いをしていたように、危険性を知らない人もいるでしょう。また、気持ちを伝えづらく、気持ちを伝える手段としては難しいものがあります。

 僕たちの生活に関わっているメールは、良い方向に動かしている時もあれば、悪い方向に動かしていることもあると理解することが大切ではないでしょうか。メールに頼りっぱなしにしてはいけません。メールを使うタイミングが重要です。メールの良い点を伸ばしていくためには、不特定の人とメールをしたり、安全でないサイトにアクセスしないなど、注意することが大切です。

 このように、メールの良い点をうまく生活の中に取り入れ、悪い点には対処していくことが、メールの本当の正しい使い方だと思います。みなさん、今あるこのメディアと上手につきあい、メールの正しい使い方を知り、よりよい生活にしていきませんか

審査委員長特別賞

「一人一冊抱く想い」

      浦添市立港川中学 三年 西原 裕希

「どれぐらい本が好きですか。」

その問いに私は二つ答えましょう。

 受験に備え一分一秒をおしむべき受験生が本を買う為の図書カードを手に入れる為に、締め切り二日前の××・××文化大賞に応募するぐらい本が好き。もう大好き。

 「本の最大の魅力は何ですか?」

そう聞かれたならこう言いましょう。

 本の中には、私達生身の人間の「憧れ」が沢山つまっています。日常を抜け出して始まる冒険、ファンタジー。荒波に飲まれ航海する船乗り。山の中に住む仙人。動物としゃべる人間。願いを叶える神様。不思議な力を持った人間の生きる不思議な世界は、妖怪やら幽霊やらで大騒ぎ。

 そんな物語にかなりの確率で登場するのは、現実にいたら一も二もなく「結婚して下さい」と言ってしまえるかっこいいキャラクターや、「こんな人間になりたい」と人生の目標にしてしまえる程中味の深い人間達。

 決して「たいくつ」しない日常が、本の中にはあり、毎日学校のイスに座ってムズムズしてるお尻が、満たされるのです。

 さて、ここまで書くと自分が本の熱狂的な信者のようなきがしてくるので、ここらでいっぺん深呼吸。

 私は別に、「毎日毎日つまんねーよ。勉強、勉強ってよお」って本気で思ってる訳じゃないです。「たいくつで死んじゃう」なんて、小学生の日曜日でもあるまいし。今はやらなきゃいけない事だらけで、明日は何しょっかな。どころじゃないのが現実です。今だっておら、無謀にも下書き無しで作文書いているし。

 でもやはり、そんなもの全部ひっくるめて「つまんないなー」と思ってしまう瞬間があります。現実は嫌。そう思う時もあるのです。

 そんな時、本の最大の魅力は、そう思う私を許してくれることではないでしょうか。

 「しっかりしなさい」「もっと頑張れ」そう言われて、時々息のつまる現実とは違い、本の中はどこまでも無限に広がっていて、想像の中ではどこまでも自由です。叩くと割れてしまう鏡の向こうにだって行けます。水たまりの向こうにだって抜けられます。

 逃避と思う方もいるでしょう。でも逃げている訳じゃない。本に励まされて、頑張ろうと思えるのです。

 でも、そんな事全て無視して、少し悲しいのです。

 幼稚園の頃、「将来はもののけ姫になる!」なんて言った自分。本気でなれると思っていました。この世界には魔法だってあると思ってた。いわば、本の中を地で生きてる感じ。「明日は何をする?」「探検する」どこでもかしこも秘密基地。いや丸見えだろう。なんてツッコミも届かないくらいです。

 そんな自分に嫉妬してる部分があるのです。お恥ずかしい。小生穴があったら入りたい。だけどいまだに夢をみていたいのです。

 どうでしょう。なさけないことをぐだぐだと書いてるうちに、規定の三枚半まであと少し。ずっと欲しくてたまらなかったあの本まで、もう少し。

 やっぱり本は、多分自分にとって一番欠かせないものだと思います。

 まだ今一、ハッキリ伝えられていない本の魅力ですが、私如きでは語れないような気が、今さらしてきたのは何故でしょう。それはやはり、本の魅力は無限大だからではないでしょうか。読む人一人ひとりの、本に対して抱く想いが、世界に一つしかない本の魅力となる。私は私の抱く想いしか語れません。

 それもやっぱり、本の持つ魅力の一つなんだと、私は思います。

入選

「メールと私」

恩納村立恩納中学 一年 安里 紗彩

「あさとー、起きてる?」「うん、起きてるよ」「明日って、ジャージ登校?」「そうだよー」「ありがとう」。これは、私が普段やっているメールのやりとりです。おそらく、このやりとりを見て普通の事と思う人と、電話でやれば良いのにと思う人とのどちらかでしょう。私は、無論前者の方ですメールは、安いし、絵文字や文字の色の選択、他にもいろいろ機能があり、打っていて、どんな工夫をしようかと考えるのが楽しいからです。しかし、これだけのメールも毎日やっているとどうでしょう。私がこれだけのやりとりをするだけで、電話の五倍以上の時間を使います。それに、いくらメールが安いからといって、これを何十回、何百回としていたら、それなりの金額になってしまいます。また、後者の意見はどうでしょう。金額は少しメールより高いのですが、短い時間で、すみます。それにメールでは、自分の気持ちがうまく伝わりにくい点があります。私は以前「ゴメンネ()」という文章が送られてきたことがあります。相手に申し訳ないという気持ちがあったとしても、私には、()がついてるおかげで素直に受け入れることができませんでした。しかし、その逆もあります。メールの文章のできが悪く、誤解されそうな時に、()を付けると、和やかな雰囲気が作れることもあります。()を使うだけで相手を良い気持ちにさせたり、不愉快な気持ちにさせたりできるのです。

また、違う視点から見てみましょう。私の母の友人に、電磁波に敏感な人がいます。彼女は、電話で話すと頭が痛くなるそうで、メールでのやりとりが、良いといっています。そういった立場の人にとっては、メールの存在は、とても、便利で、ありがたいものだと思います。このように、メールにも、電話に良い点と悪い点があるといえるでしょう。

最近、私のもとにチェーンメールがよくまわってきます。「癌で苦しんでいるこのため、募金をよろしくお願いします」や「これを七人の人に送ると幸せになるよ」など、内容は様々です。こういう内容だと、まだわかりますが、中には、「このメールを、十時間以内に十人に送らなければ、あなたの足をもらう」といった、悪質なものまで送られてきます。おそらく、このようなメールをもらい良い気分になる人はいないでしょう。このメールの最初の発信者は、人の気持ちを考えて、送信ボタンを押したのでしょうか。相手の顔が見えないからこそ、相手の気持ちをよく考えて、送信ボタンを押すべきだと思います。

中学生の私達にとってメールは、一つの楽しみでもあります。だから、メールの悪い点のせいで、良い点がうすれてしまうのは、とても、もったいないと思います。チェーンメールで、色々な人に、募金を呼び掛けをして命が助かる人もいるし、私は、落ちこんでいる時、友達からメールをもらい、励まされた事もあります。私は、吹奏楽部に入っていますが、バレー部の人数が足りないので、この夏、助っ人でバレーをやっていました。素人の私は、何回もミスをし、チームの足を引っぱっていました。その時、チームの一人が、「気にするな」とメールを送ってくれました。

このように、メールを上手に活用していくことで、人の事を思いやる心が、育っていくと思いますメールは悪質なチェーンメールをしないなどのルールを守り、相手の気持ちをよく考えて行うと、良いコミュニケーションの手段になります。

結論として、メールは良い点と悪い点をふまえて、相手を不愉快な気分にさせないようよく考えて使うことが必要だと思います。今の時代で、最も定着している、情報交換の手段だからこそ、一人一人が、メールの使い方を見直し、人の心を傷つけたり、傷ついたりしないようにする事が大切です。

入選

「文字の力」

糸満市立西崎中学 三年 上原 理緒

 「文字にはすごい力がある。」

私がそう考えるようになったのは、ある一冊の本との出会いでした。

 その本とは、インディアンの森へ引っ越してきた主人公マットと、その森に住むインディアンの少年エイティアンの、人種を超えた友情の話です。マットが川で溺れていたところ、エイティアンらに助けてもらい、お礼にマットは、一冊の本をあげました。しかし、インディアンは字が読めません。そこでエイティアンの祖父、サクニスじいさんはマットに字を教えてくれるよう言いました。はじめは、いやいやながらもマットの所へ来ていたエイティアンも、徐々にマットの声に耳を傾けるようになっていきました。

 なぜエイティアンは、いやがっていたのでしょう。初めて見る「本」というもの。その中に広がるいくつもの文字。何かの暗号だろうか、あるいは、単なる線のかたまりなのか。文字を学ぶという以前に、文字というのは何なのかを教えるべきだったのです。しかし、マットにはそこまでの知恵はありませんでした。もし「文字の大切さ」を知っていたなら、二人の少年のつながりは、もっと違う形になっていたのかもしれません。

 「文字のない世界」とはいったいどんなものなのか。考えてみたけれど、想像すらできません。

 そして現代に生きる私達にとって文字は、一つの情報手段でもあります。

 例えば、新聞は、自分のいないところで何が起こっているのかが、読めばすぐにわかります。遠くにいる相手でも、メールや手紙でやりとりできます。

 しかし、エイティアンにとっては、文字というのは、ただの線だったのです。

 また文字には、「伝える」という力もあります。気持ちや思い、願いなど、伝えることいくらでもあります。しかし、エイティアン達は会話の中でしか「伝える」ということができません。私はこの時、文字のありがたさを実感しました。

 私達には、「伝える」方法が二種類あります。一つは、相手を直接話す、会話という方法。もう一つは、伝えたいことを文字にして表す方法です。私は直接や会話して伝えることも大切だと思います。しかし、文字にして伝える方がいい場合も多くあります。例えば、すごく大事なことがあって、誰かに伝言しなければいけないとしたら、どうしますか。そういう時私達は、メモをします。メモをとらないと、相手に伝えるまでに忘れてしまって、伝えきれなくなるからです。しかしメモをとっておくと、忘れずにしっかい相手に伝えることができます。

 ほかにも、大事なことなのに、簡単に電話で済まそうという人がいます。電話で話したことは忘れてしまいがちですが、手紙などに書いておくと、忘れてもすぐに読み返すことができます。

 私は毎年送られてくる年賀状をいつも楽しみにしています。年賀状を通して、離れている友達の様子が伝わってくるし、いつも会っている人でも、こんな字していたんだーと新しい発見ができるからです。

 ある日、私は部活の連絡で友達と電話をしていました。次の日、その友達は部活に遅れてきました。何で遅れたの?と聞くと、

「え?だって理緒奈がこの時間って言っていたじゃん。」

確かに電話で伝えたはずなのに、その友達には伝わっていませんでした。紙にメモをしておけば、相手も自分も理解することができ、確実伝えることができたはずです。

 本当に大事なものは、いつまでも何かの形として残しておきたい。その方法として、今一度文字を見直してみてはどうでしょうか。

入選

「広がる世界」

宮古島市立鏡原中学 二年  根間 恵美

 私は本が好きです。毎日一時間以上、多い時には五時間ぐらい読み、休日は一日中読んでいることもあります。食事も忘れ、他のことは何もせずにただひたすら読み続けたほどです。

 そしてその物語を楽しむと同時に、たくさんのことを考えるようになり、読めば読むほどいろいろな疑問が浮かんできます。

 例えば、「なぜ私はマンガではなく、本が好きなんだろう」「本ってなんだろう」という疑問です。一番大きな違いは、やはりマンガは絵で表現されている所だと思います。もちろん、感動する台詞はありますが、注目されるのは絵だと思います。それに比べて文章だけで表現される本は、挿し絵を除き、読者が登場人物の動きや表情を想像しながら読みます。そのため読者によって自分だけの世界を創り出せるのではないでしょうか。

私が本を楽しいと思うのは、それが一番大きな理由です。共感できる所があること、そして読む人によって全く違う印象を持ったり、人それぞれの想像ができ、たくさんの世界が生まれていくことです。

 私は外国に行ったことはありませんが、外国の方が書いた本を読み、行ったことのない国の習慣や文化を知ったり、またそこから自分の想像の世界を広げていくのです。

 さらに今、存在している本は全て内容が違います。本はその作者の想像の世界を文字で表しているからだと思います。作者が変われば、表現も変わってきます。「星が光る」と表す人もいれば「星が輝く」と表す人もいます。このような表現の違いは、作者の想いや言葉のニュアンス、その場の状況によって変わり、その本の印象を作り上げていくのだと思います。そういう表現に気づいた時「だから私はこの作者に対してこんなイメージを持っていたんだ」と感動した覚えがあります。

 それにさっき触れた通り、日本に限らず、外国の本も日本語に翻訳された多くの人を楽しませています。外国の文化、昔の生活、時や場所を超えて感動を伝えるすばらしさが本にはあると思います。

 さらに、趣味や目標にまで発展するかもしれません。私は、主人公が小説を書いていく本を読み、読書がもっと好きになりました。私はもともと口数が多い方ではなく、人に自分の考えや思っていることを伝えるのが苦手でした。しかし本を読み、文章にすることで自分の思いを表すことができることを知ったのです。そそれが影響して、今では自分で「小節を書いてみたい」と思うようにまでなりました。私の周りにも同じように、本に影響を受けた友達がいます。

 今までは、そこまで深く考えていなかった「本」という存在。小さな疑問を見つけた事で、また一つ、自分を見つめ、考えを深めることができました。

 話が長い、漢字が多いなどの理由で本をあまり読まない人もいますが、話が長くて漢字が多い分、それだけの知識が詰まっていると考えれば、私はそれを含めて本の魅力なのだと思うのです。 

 本の登場人文やその環境だけでなく、細やかな表現などからも、私に興味を与えてくれる本。それと同時に、人と人との絆の強さや美しさ、悲しい歴史やすばらしい出来事、そして自分のいる環境のありがたさを痛感します。さらにどんどん広がり続ける知識と夢。

 たくさんの新しい夢と世界を求めて、私は今日もページをめくります。

入選

「文字」の存在

糸満市立西崎中学 一年 徳村 友理

 「文字」って何だろうと疑問に思い、辞典で調べてみることにしました。文字とは言葉表現する記号で、思想や感情の伝達・交換のためのものと書かれていました。

 私は小学校の頃に書道教室に通い始めました。理由はがんばりノートの字が汚いからでした。最初の頃は教室に同級生もいて、学校帰りに一緒に行きとても楽しかったですが、高学年になると転校や家の事情などによりやめる子が増え、同じ歳の子は誰一人いませんでした。もともと何事も続かない性格だったので「やめたい」と思い始め、六年生の頃には書道に行かなくなりました。

 中学校へ入学する前に、私の中学校入学といとこの小学校入学のお祝いがありました。そこで祖母に「友理、書道を絶対にやめたらいけないよ。中学校でも高校でもやるんだよ」と言われ、やめるにやめられず、中学校でも書道を続けることになりました。

 中学二年の三学期に書道の先生から「友理、あなた読売学生書展、だしたでしょう。それ二つ(半紙と条幅)特選に入ったよ」と連絡がありました。先生のすすめもあり、家族でその展覧会を見に行きました。とてもきれいな字、ダイナミックな字、見たこともない書体がありました。同じ文字を書いていても、全然違う文字のようでした。どれを見ても感動する物ばかりでした。私が何か物を見て感動したのは、この時が初めてだと思います。私だけではなく書道を経験していない私の家族も「素敵だね」と感動していました。

 「人に感動をあたえられる文字、私も人に感動をあたえられる文字を書きたい」と心の底から思いました。

 書道は筆と墨を使い紙に文字を書きますが、書く人により文字の型などが変わるため、個性が表れ、とても良いものだと私は思います。お手本に似せてとてもきれいに書くことも大切ですが、文字の持つ意味を考え、自分自身の気持ちを込めて書くことでそれを見た人がその気持ちを読む事で感動するのだと思います。

 文字には一つ一つに意味がり、それをつなぎ合わせて言葉になるのです。私には好きな言葉があります。「心が変われば人生が変わる」という言葉です。これも一つ一つの文字から成り立っています。

 昔の人が山を見て山という文字をつくらなかったら、川を見て川という文字をつくらなかったら、山と川という文字はこの世に存在しなかったでしょう。

 私は自分の名前が嫌いでした。小学校の頃に書道で賞状をもらっても、自分の名前の漢字がいつもまちがって書かれていただからです。賞状をもらって嬉しいはずなのに、いつも書き直してもらっていました。「なんで人がまちがえそうな名前をつけたの」と思う日々でした。ですが今考えてみると親が私にこの名前をつけたのには意味があるのだと思いました。名前の由来を聞いてみると、「人の道を決してはずす事なく、友達思いの優しい心を持った子供に育って欲しい」と思いつけたそうです。もしも私の友理という名前の友と理がちがう意味だった場合、私の名前は友理じゃなかったのかもしれません。

 書道も文字がなければ、できなかった。好きな言葉も文字がなければ、なかった。私の名前も文字がなければ存在しなかった。私がこの作文を書けているのも文字があったおかげなのです。

 文字とは辞典にのっていたように言葉を表現する符号で、思想や感情の伝達・交換するためのものです。ですが「文字」というものは辞典では表せないほど私達の身近にあり、私達の生活に必要不可欠なものです。

 みなさんも「文字」について考えてみましょう。

入選

「読書の良さを見つめて」

沖縄市立沖縄東中学 三年 當間 比呂

 

 あなたは最近自らの意思で本を読みましたか。

 私は通っている中学校では朝の読書時間が設けられています。その時間に本を読んでいない人がいれば放課後にクラスメイト全員教室に残され読書をします。クラスメイトの中には、放課後残されるのもイヤだけど本を読む気はなくて、ただ「ぼー」としている人を見たことがあります。本が好きな私からすると、読書の良さを気付けずにそうしているのは本当にもったいないことだと思います。

 最近、自分から積極的に本をふれあうとする人が少なくなっているのではないでしょうか。

 本を読む環境は整っています。大型のスーパーマーケットには確実に書店がありますし、学校や地域の図書館も内容が充実しています。さらに、書店や地域の図書館には、本の在庫や陳列されている棚を案内してくれるメディアも設置されるようになって、本を読む環境はより良くなっていると思います。

 しかし、本を読まなくなる環境も整っているのは確かです。携帯電話でのメールやゲーム機の進歩は、新しいものを生活にどんどん取り入れていこうとする人類の目には決して悪いものには映らないはずですから。

 人によって、読書の価値の重さは違おうと思います。

 私にとって、物語の本を読む時間は、日々の生活での一種の息抜きです。でも、私の見る限り私の友人は、物語を読む時を、一番心の休まる時にしているような気がします。

 やはり、個人差あると思いますが、本を読むことで、気分のリフレッシュやリアラックス効果が得られているみたいです。また、私は図鑑なども好きなのでよく読みます。図鑑を読むことで無意識に知識を吸収できて、役に立っていると実感することがありました。

 これは私が実際に体験した事です。

 中学三年生になって初めて社会科で公民を勉強しました。その中で裁判の仕組みについて習う機会があったのですが、先生が授業の始めに、裁判の種類と裁判所で働く人達の役職について質問していた時です。別にどこかで習ったりした訳でもないのに、私の頭の中に次々と答えが出てきます。それと同時に、前に読んだ事のある本で知った内容であることに気付きました。この時、あぁ、読書をすることで得た知識が授業を理解する事に役に立っていると思い、うれしかったです。

 他にも友人との意見の食い違いがあって、もやもやしている時、今自分のいる世界とは全く異なる本の中の世界を通して、自分を見つめなおすことが出来たので、素直に謝れたこともありました。

 読者の良さはそこにあるのではないでしょうか。

 図鑑でも、物語でも、著者の知っている全てを教えてくれて、意識せずとも知識を吸収できるところ。物語が自分の思い通り進まず、悩んでいても、ちょっとした息抜きの時間に自分自身について考えてみれるところ。また、ケータイ小説のような新しい読書の形も生まれ、今までの形の読書が苦手な人でも気軽に読書に挑戦できるようになったところ。

 皆が、学校で決められているとか、読まなくてはいけないから「読む」のではなく、本の良さについて考えながら、体験しながら「読む」ことをしてほしいです。

 さあ、あなたもこれから自らの意思で本を手に取って読んでみませんか。

入選

「本の魅力」

    沖縄尚学付属中学  湯田 桐子

 図書館の扉を開くと、本の香りがします。私は、この香りが大好きです。

 幼い頃から、母が読んでくれる絵本が大好きでした。字を読めない私は、寝るどころか「もっと読んで」とおねだりをしたものです。翌日、絵本のページをめくっては、うろ覚えの母の言葉と絵本を見比べて、想像の世界で私だけの物語をたくさん作り上げました。

 我が家の本は、母からのお下がりが多く、幼稚園で初めて図書館に出会った時は、感動しました。私は文字を覚えるのが遅かったため、いつも母や祖母の膝で読んでもらった記憶があります。その声や温もりも、私の大切な思い出の一つです。

 私は小学校一年生の頃、事故に合い一学期を病院で過ごしました。入学してすぐの出来事だったため取り残された気持ちと、治療や傷の痛みで、毎日が殺伐として心は怒りでいっぱいでした。そんな時に、お見舞いに来てくれたお友達が私に一冊の本をプレゼントしてくれました。それは「かいけつゾロリ」と言う本でした。

 悪いことを企んでも、結果としてみんなを幸せにしてしまう。そんな主人公のゾロリと仲間のイシシ、ノシシの物語。病室や夜の待合室で母に何度も読んでもらい、オナラでマシンを作るゾロリのお陰で気がついたら、イライラしていた気分が無くなり、ゾロリのシリーズをみんなにお願いして届けてもらっていました。

 母も祖母も私も、本の中の主人公から、笑顔を貰い、気がついたら傷の痛みも和らいでいました。小学校で文字を習うからと、「あいうえお」も読めなかった私は、退院する頃には一人で本が読めるようになりたいと、思うようになっていました。

 退院後は、クラスメイトたちに追いつくようにと、夏休みの間に一生懸命勉強して、平仮名もカタカナも読み書きができるようになりました。

 二学期が始まって、私は学校に通い始めましたが、運道制限などがあり運動会練習をしている間は、図書館で過ごしていました。そこは、まるで宝箱の中に入ったようで今まで見たことのない本で埋め尽くされていました。幼い私には、ハリー・ポッターに出てくる図書館の様に見えていた気がします。

 どうしても上級生向けの本が読みたくて、漢字の勉強をしました。分からないところは先生や母に聞きながら、国語辞典の使い方を習って、意味を調べながら。

 本を読むと、まるで私が主人公になった気がします。宮沢賢治が大好きで特に「注文の多い料理店」は値段と利用価値だけで判断する主人を怒った動物達の逆襲に合う物語でペットを飼っている私にとって当然のことだと思いました。この本を読んで私は自分のペット特に甘やかしました。また「銀河鉄道の夜」は、私に星を見る楽しさを与えてくれました。今でもふと夜空を見上げて、星を読んでいます。

 最近では推理小説を読みながら、探偵になった気分を味わっています。また先読んだ「赤毛のアン」の舞台はカナダのプリンス・エドワード島で、沖縄生まれの私は、雪に閉ざされた冬や、春に咲く白い桜の花をいつか体験したいという気持ちになりました。

 少しほこりをかぶり、カビの香りのする本の中には、私の知らない新しい世界が詰まっています。

 家族や友人との会話が深まるのも本のおかげです。

 本は今までも、これからも、私を豊かにしてくれる親友です。

入選

「文字・活字の魅力」

      恩納村立恩納中学 一年  眞榮城 のぞみ

 みなさん、だれかに、ていねいな字で心を込めて手紙を書いたことがありますか?

 私は、友達に誕生日プレゼントと一緒にカードを添えて渡したりしています。 手紙を書いて渡したほうが、自分の気持ちが伝わると思うからです。 自分の言葉で伝えることも大事ですが、文字で伝えることも、私は大事だと思います。

 例えば、友達とケンカをしてしまい、仲直りをしたくても、口ゲンカをしたり、気まずくなったりして、仲直りできる状況ではない場合がそうです。 そんな時に、手紙を書いて、だれかクラスメイトに渡してもらったりして、その後に、「この前は、ゴメン」と謝ればいいと思います。

 言葉で言うと、自分の思っていることがなかなか相手に伝わらなくて、こじれてしまうかもしれません。 だから、自分の思いを文にして相手に渡せば、自分の気持ちを理解してくれると思うのです。 言葉では、なかなか伝わらないことも、文章にすれば伝わりやすくなります。

 ですが、「字」も乱暴で読める字でないと手紙を書いて渡しても、意味がありません。だから、ていねいな字で書かなければいけません。

 私は、よく友達に、数学のノートなどを見せてもらいます。その時、ていねいな字で読みやすいノートと、雑な字で読みにくいノートがあります。 読みやすいノートの方は、ていねいで、わかりやすく、とても助かります。逆に、読みにくいノートの方は、雑で何を書いているのかわかりません。

 ノートを見せてもらうなら、ていねいなノートを見せてもらう方がいいです。字がきれいな人を見ると、「かっこいいな」と思います。私は、字がきれいではないので、字がきれいな人を見ると、あこがれるし、「あんな字を書きたいな」と思います。

 最近は、パソコンやケータイのメールで簡単に文字が打て、字を書くという事が少なくなっています。

 私は、「文字を書く」ということは、すばらしいことだと思います。「人の性格は文字に表れる」と母がよく言います。「本当にそうだな」と私は思います。

 人を見ていると、とても個性的な人たちがたくさんいます。「文字」も、それと同じように違う人が書くと、文字も違った形で、丸みがあったり、行書が交じったたりと、実に個性的で、とてもおもしろいです。

 私は、小学校二年生の時から、書道を習っています。きっかけは、私の字が汚く、読める字ではなかったので母に強制的に教室に入れられてしまったのです最初は手本通りに書けなくて、怒られて、泣いたこともあいましたが、今は書道をやっていて良かったと思います。きれいに書けると、気持ちがよく、自分でも嬉しいからです。また毛筆だと書いた人の個性がはっきりと出てきます。

 しかし、メールでは文字を打っているので字の特徴というものがありません。だから、たまには、手紙を書いて、書いて、相手に渡すのもいい事だと思います。

 メールでは、伝えづらいことも、手紙に素直な気持ちを書いて、渡せば相手も喜ぶと思うし、これまで以上に交友関係が深まると私は思います。

 だから、メールばかりではなく、手紙を書くということも大切だと思います。自分の書いた字でしか、伝わらない思いがあります。優しさ、思いやりなど、心を伝えたいのです。

 その思いを素直に表せるのが、「文字」なのではないでしょうか。



文字・活字文化大賞・意見文小論文コンクール

[高校生小論文の部]

文字・活字文化大賞(最優秀賞)

「一文字のメッセージ」

県立普天間高校 三年 仲本明希

 何気なく聴いていたラジオから、こんな会話が聞こえてきた。

「キュウクツってどんな字をかきましたっけ。」「こうですよ・・・あれ、わからない。」

「漢字って書けると思っていてもなかなか書けないものですね。」

キュウクツなんて日常的に使う言葉ではないか、と思って私も空で漢字を書いてみた。ところが、「クツ」はすぐに出てきても「キュウ」が意外に出てこない。結局、携帯の変換機能を使うまで思い浮かばなかった。それがなんとなく悔しくて、そのまま携帯で「窮」と「屈」の漢字の意味をまで調べてみた。それぞれ「身動きがとれない」「行き詰る」という意味を持つそうだ。なるほどその二文字を合わせて窮屈か、よくできている言葉だな、と思わず一人で感心してしまった。

 携帯電話やパソコン、新聞といったメディアでは活字が当たり前になり、情報は驚くほどのスピードで世界を駆け巡るようになった。それに伴って、情報を伝えるための文字の入力もそのスピードに対応

できるよう、変換という機能が生まれた。世間ではしばしば、変換機能が出てきたから漢字を書く機会が減っている、だから現代人は漢字がわからない、と否定的に捉えられることもあるが、私はむしろ、書くだけでは決して出会うことのない、例えば「薔薇」や「檸檬」といった難しい漢字にも触れ合う機会が増えているのは良いことだ、と思う。また、たくさんの漢字の中から目当ての文字を入力するためには、漢字の形をきちんと覚えていなければ、数々の同音異義の中からそれを選び出すことはできない。今の私たちは、漢字を音と形で覚え、以前よりもはるかに多くの数を使いこなしている。だから決して漢字がわからないというわけではないと思うのだ。

 では、活字や変換機能は私たちから何を忘れさせてしまったのだろうか。私は、漢字の形や音のその奥、漢字そのものが持つ意味を考えることではないかと思う。例えば、窮屈という二文字を入力する際、形態電話やパソコンの変換機能では「キュウクツ」と漢字の音を入力すると、一瞬で「窮屈」という漢字に形に変換される。音と形がイコールで結ばれた入力方法だ。それに対して手書きでは、「窮する」の窮に「屈折」の屈、といった具合に一文字ずつを認識しながら書いていく。これは漢字を音ではなく文字の持つ意味として捉えている。本来、窮屈は「身動きがとれない」の窮と「行き詰まる」の屈を合わせて「思うように振舞えない」という意味に発展していった言葉なのだ。しかし、今の社会では一文字一文字に時間をかけていると時代の流れに置いていかれてしまう。そのため、漢字を扱う上で最低限必要である音と形のみを使った変換とう機能で、スピードを重視した入力が主流になっているのだと思う。

 音を表す記号であるひらがなやアルファベットとは異なり、漢字はそれ自体が意味を持つ奥深い文字だ。秋の桜と書いてコスモス、海の月と書いてクラゲ、などといったものは他の文字ではなかなか表現しきれない大変風情のある言葉であろう。しかし、現代ではこれらの文字が同じようなものとして扱われてしまっているような気がして、非常にもったいないと私は思う。確かに、現代では生活していく上では、漢字は音と形だけでも十分に対応できるのかもしれない。それでも、ただの記号ではない、いうなれば生きた文字である漢字の可能性を、私たちは無駄にすることはないと思うのだ。

 漢字の面白さはなにも熟語だけではない。人の夢と書いて儚い、下心が恋で真心が愛、などといったように、漢字にまつわる興味深い話は無限にある。そして、その一番の例が私たちに付けられた名前ではないだろうか。私の名前は、明希「あき」だ。小さかった頃は、名前の音だけで季節の秋だとからかわれることもしばしばあった。しかし、私のこの名前は、私が生まれた時にちょうど上ってくる朝日を見て「明るく希望に満ちた人生を送れるように」と付けてくれたものなのだそうだ。漢字に託されたメッセージ。両親が願いをかけて付けてくれた、私たちの人生へのメッセージ。そう、漢字は記号である以前に、一文字のメッセージなのだ。教科書やパソコンに溢れる文字の羅列に疲れたら、ふっと力を抜いてそこにある漢字を眺めてみたらどうだろう。ただの記号だと思っていたその一文字一文字から、もしかすると今まで見逃していたメッセージが届くかもしれない。

県知事賞(優秀賞)

「バリアフリー」を考える

  沖縄カトリック高校 三年砂川さやか

 現在の日本は、少子高齢化の加速に伴い、福祉問題も深刻化している状況である。高齢者や障害者だけに限らず誰もが生活しやすいバリアフリー社会への転換期としてバリアフリーという福祉の大切さを広める必要があると考える。

先日、新聞を読んでいると、北谷町で開催された県産映画「ニライの丘」の上映会に耳の不自由な人達が多く駆け付けたという小さな記事を見つけた。その記事によると投影された映像には字幕が出ており台詞だけでなく「風の音」「雨の降る音」など収録音まで細かく表示していたという。日本図書館協会の調べで、日本映画は字幕付き市販ビデオで0・66%、DVDで7・1%とわずかな数しかない。全日本難聴者、中途視聴者団体連合会も経済産業省に字幕を付けるようにと要望書を提出していると、この時初めて知った。

私ごとではあるが、自分自身も聴覚障害を持っている。私は新作映画を観たくても字幕が付いていなければ観る意味がない。世間で話題のテレビ番組も字幕放送されていなければつまらないものとなる。物心が付いた頃から、車の警笛に気づかず危険な思いをし、乗り物や店内などのアナウンス、家電製品の終了音、ドアベル、電話着信音に不自由を感じる。また、コミュニケーションの場で、はっきりと会話を聞き取れなくて相手の真意が伝わらずに誤解を招いたり、別の意味に解釈することが度々ある。そういう世界に住んでいる私は、バリアフリーの必要性を十分に感じている。

高齢者や身体障害者に配慮した「障害者のための国際シンボルマーク」である身障者用の駐車場に障害者が止められない現状を見ると痛々しい。また、シルバーシートを占有し座席を譲らないなど自己中心的でバリアフリーに理解のない人がいるのが現実である。障害者の負担を軽くするために勇気を出して声を掛けたり、手助けをしなければせっかくの設備が無駄になってしまう。さらに障害者は道路や歩道の障害物、店内の商品の陳列、雑貨などの容器を、点字や感触で区別をする。また、砂利道や凸凹道、バスなどの段差が障害となり車イスでの乗り降りの移動を素早く行うのに大変な思いをしている。最近のニュースで電動車イスの転倒事故も多発し、安全性の確保や法律の整備が早急に求められているという。考えてみれば、日本のバリアフリーの充実は積極的ではないと感じる。

私は会話などで発した言葉を同時に最速文字化する機械があればと日ごろ思っている。その提案として、欧米型バリアフリーの取り組みを積極的に行っている福祉先進国の一つ、スウェーデンと比較し参考にすることを進める。高齢者や視覚、聴覚、肢体不自由などの障害者は健常者と同じように平等に生きる権利も価値も十分にあることを認め積極的に取り組まなければいけない。私の地元、沖縄ではおじいちゃん、おばあちゃんの元気な笑顔をよく見かける。しかし、高齢者が杖を突いて歩いている時や、階段を時間かけて上っている時につらそうな顔を見ていると胸が痛み、どうにかしなければと頭では分かっていても逃げ出す時もある。「荷物を持ちましょうか」「車イスを押してあげますよ」という優しい心で手助けする勇気を強く持たなければいけない。以前、学校の授業で目をアイマスクで覆い、何も全く見えない状態で同伴者と一緒にステッキ頼りに歩行した際、聴覚・視覚障害の二つを同時に持った私は暗闇の世界の恐怖に陥り、足がすくむ思いをした。また、高齢者の立場を理解するために全身の各所に器具を付けて筋肉の低下や関節の曲がりにくさ、平衡感覚の変化を感じる「シニア体験」をしたことがある。あまりにもの不自由さに老後、こんな風に生きていかなければならないのかと不安に思ってしまった。

今、私に出来ることは、聴覚障害を持っていても誰かに手を差し伸べてあげる優しさと、心のバリアフリー手助けをして行動することであると改めて考えさせられた。

今一度、沖縄の宝である長寿社会を守るためにも、まず障害者や高齢者の気持ちを考え誰にでも優しく思いやる心の育成、一人ひとりがバリアフリーへの理解を深め、快く手助けをする「心のバリアフリー社会」を築き上げ、さらに次の世代へ伝えていく必要がある。

高齢者や身体障害者の多様性に見合ったバリアフリー施設の利便性、安全性の向上を追及し、安心して暮らせる街をこの沖縄、日本から全世界に発信していきたい。

県教育長賞(優秀賞)

「文字活字の力」新聞を読もう

県立開邦高校 二年 島袋 晃一

 私は高校に入学してから、毎朝新聞を読んでいる。そこで、日々のニュースを確認したり、記者や一般の人々の意見を読みながら、こういう考え方もあるのかと感心しながら、様々な意見や考え方を自分の中に取り入れている。

 しかし最近、よく活字離れという言葉を耳にすることが多くなった。原因は、テレビやインターネットの急速な発達で、新聞を見なくても、欲しいときに情報が簡単に手に入るようになったからである。また、新聞を読んでも難しくて分からないことや、読む時間がないなどの理由が挙げられる。

 なぜ新聞を読まずにインターネットやテレビの情報番組を見るだろうか。一つには、勉強などのスキマ時間に気楽に情報を取得できるからだと思う。例えば、移動の車中や待ち時間に、携帯を開けば情報が簡単に取得できる。多くの人が時間に追われる生活を送っている今の世の中では、読みたい記事をすぐに検索できるインターネットの方が確かに便利である。またテレビの方は、映像と音声で語りかけ、専門家がくわしく解説してくれるため、新聞より分かりやすい利点がある。

 ここで、もう少しインターネットとテレビのメリット、デメリットを考えてみよう。まず、インターネットのメリットとしては、自分の知りたいことがすぐに分かる。また、情報が次々に更新されるため、新しいニュースがすぐに分かるなどが挙げられる。このことは、時間がない人たちにとって、とても便利である。逆にデメリットとして出所がはっきりしないケースもあり、信頼性に欠けるところがあると思う。よって、サイトの運営者に十分注意していかなければならない。次にテレビのメリットとデメリットを考えてみる。テレビのメリットは、映像と音声を通して分かりやすく伝えることである。私はこのことが一番大きいと思う。例えば、活字だけでは分かりにくい部分でも、テレビだったら、映像やイラストなど様々なものを使って分かりやすく伝えることができる。よって、新聞よりも人の心に訴える力が大きいと思う。しかし、そこにデメリットが隠されていると思う。心に訴える力が大きい分、私たちは編集されていることを忘れ、すべてを事実として受け止めてしまう危険性がある。民放の場合は、視聴率を上げるために、人々が関心を引くような話題を過剰に流すこともあるので、その辺もしっかり見極めなければならない。情報を受け取る側にもその心構えが必要である。

 逆に、新聞のメリットとデメリットを考えてみよう。新聞のメリットの一つに、信頼性が高いということが言えるだろう。理由は、一つの記事が掲載されるまでに、記者や編集デスクの二重三重のチェックが入るからである。またもうひとつメリットは、ニュース一つ一つの価値が分かることである。新聞の記事は見出しの大きさや、どの面のどの位置に配置されるかによって、どれだけ大きいニュースなのか、一目で分かるようになっている。逆にデメリットとして、インターネットやテレビに比べると情報が遅いことである。

 こうして新聞のメリット、デメリットを踏まえ新聞の活用法を考えてみた。まず時間がない場合、見出しや社説のタイトルだけをざっと見ることや、自分の興味がある分野に記事だけに目を通すだけでも、社会情勢の変化が少しでも見えてくると思う。また時間がある場合には、関心のある記事を読み、この意見には賛成または反対といったように自分と対話をしながらじっくり読むことができる。このように自分の考え方を構築したり、自分の意見を上手く伝えることができるようになるのではないだろうか。実際に大学入試の小論文を考えるときに役立っていくと思う。さらに、複数の新聞を読むという方法もあると思う。複数の新聞を読むことによって、ひとつのニュースについてより多角的な様々な視点が得られ、自分の視野を広くするいい機会につながっていくと思う。

 活字離れに対しては、私たちだけではなく作り手である新聞社側も努力しなければいけないと思う。たとえば、専門用語や難しい語句の解説を充実させ、若者の関心をひくようなコラム作りやイラストなどの積極的な取り組みが必要である。大手新聞社はその取り組みをいち早く行っているという。一方私たち読者は、新聞のメリットを今一度考え、一社会人として社会に興味をもって毎日、新聞に目を通す習慣を身につけるべきだと思う。

 時間に追われながらの制約があるテレビと自分のペースで熟考する時間が確保できる活字媒体である新聞を上手く活用し、知識を高め良識ある大人になりたい。

沖縄印刷団地協同組合賞(優良賞)

「ストライキで考える中国と日本」

 県立那覇商業高校 三年 徳浜 くるみ

 私は生徒商研部に所属していた。私たち高校生が自ら商品を開発し、販売することを目的にしたのが生徒商研部だ。一年前、私たちはローカルヒーローをモチーフにした商品の開発や販売をすることになった。商品そのものは委託する形をとるが、どこに委託するかの話し合った結果、コスト削減を第一に考え、思い切って中国の工場と取引をすることになった。言葉の壁はあったものの、当初予想していたよりも中国の方とのやり取りはスムーズに行われた。中国との取引を経験してからというものの、私にとって中国が一気に身近な存在へと変わった。今まであまり意識していなかった中国そのものに興味が湧くようになった。今でも新聞を読む度、自然と中国に関する記事に注目する。

 ある時、新聞に日本企業と中国間の問題を取り上げている記事を目にした。ホンダが出資する中国の部品工場で中国労働者によるストライキが起き、結果、ホンダが二割の賃上げを提案したという内容だ。しかし、それが引き金にとなり、中国におけるほかの外資系企業においてもストライキ活動が広がったということが新聞に掲載されていた。中国の労働者は働く場所を求めるだけでなく、企業に自らの優遇も求めるようになった。この意識変化が現れた中国は今後どのように変わっていくのか。

 賃金への意識が変わった労働者は、モノの消費を増やすだろう。したがって、中国市場は「大量生産」国から「大量消費」国となると予想できる。実際、中国政府は労働者の賃金を現在の二倍に増やすことを検討し始めた。

この政策で賃上げが可能となれば、これまで以上に中国は世界的に影響力のある大きな需要国になるのではないだろうか。

 しかし、急激な経済的発展によって、中国の課題が浮き彫りになっていることも事実だ。

それは電子工学などの製造業における人材不足である。熟練工の不足により、企業は一人ひとりの労働時間を増大せざるを得なくなり、結果、やえてしまうという悪循環に陥っているという。この熟練労働者の不足の理由の一つに農村地域の教育の問題があげられる高度化する都市部の企業のニーズに労働者に求められる能力や技術が追いついていない。その状況を改善するため、企業は社内教育に力を入れ、熟練者を育てる研修などの活動を増やし、雇用獲得を目指している。政府も、農村地域の学校授業料免除など、今後、教育政策を打ち出すと語っている。

 現在の中国のような経済の流れは、どの国も経験する問題だ。日本ももちろん例外ではない。六十年代の「所得倍増計画」に始まり七十年代前半には春闘を通じた賃金に関する労働運動が活発化した。それにより、\水準の賃金上昇率が実現し、民間消費の拡大に寄与した。中国のストライキと日本の春闘、それぞれの労働者の訴え方は異なるものの、同じ「賃金」:とう問題では繋がっている。賃上げに関する雇い主と労働者の問題は、どの国も避けては通れない。

 このような経験をしてきた日本は、中国に対して何ができるか。私は日本なら「経験」を援助できると考える。例えば、春闘後の政府の対応の仕方や、労働環境改善策の提案、労働者の教育方法や学校教育の在り方に至るまで、国全体の成長に繋がるような「経験」の伝授ができる。そうすることで日本と中国が親密な関係を築き、お互いに無くてはならない大きなビジネスパートナーとなるだろう。それば今まで以上の大きな利益と新しい分野への開拓にも繋がると考える。もちろん、日本と中国の政治的関係は歴史上の問題も絡み複雑な様相も見せる。最近の尖閣諸島問題でも日本と中国は対立している。しかし、「ビジネス」というフィールドでは手を取り合いともに経済を発展させることのできるパートナーであってほしいと願う。

 日頃、海外の出来事には関心がなかったが、部活動で中国を身近な国に感じた。今回のストライキは、中国との貿易を経験している私にとって、他人事とは思えなかった。そして、新聞やインターネットを通して、より深く調べることで中国のイメージが変わった。以前、私は中国に「ずるいライバル」というイメージを勝手に抱いていた。しかし、よりお隣の国を知ることで、そのイメージは「同志的ライバル」とう印象へと変わった。国同士が仲良くなるとういうのは簡単なことではないが、お互いの文化を理解し合い、相手を受け入れていくことで少しずつ良い関係が築けるはずだろう。そのような社会の中で私は日本と中国の貿易に携わる仕事がしたい。そのためにも私なりに社会の流れを今後も新聞から積極的に取り入れ、自分なりに考える努力を重ねようと思う。

沖縄タイムス社賞(優良賞)     

「デザイン フォー レフティー」

  県立那覇国際高校 一年 坂口 朱里

 世の中には、右利き、左利きの人がいる。それにもかかわらず、ほとんどの道具や物は右利き用として作られている。

 ある日、ふと見た新聞記事にこんなことが書かれてあった。「右利き社会はつらいよ。」私もこの気持ちは痛いほどよくわかる。それは、私自身が左利きだからである。記事の中には左利きの人々が持つたくさんの不満が載っていた。それは私もよく経験するものであった。駅の自動改札では左手を伸ばし、体の右側にある機械に券を入れなければならない、カウンターで食事をする腕が隣の人にぶつかり申し訳ないと感じる、などである。

 小さい頃の記憶を辿っていくと、私は幼稚園児の頃から不満を感じていた。幼稚園では毎日の生活の基本的なことを学ぶ。それは、はさみを使っていた時のことである。周りの友達は、すいすい紙を切り進めていく。しかし、私は左手で右利き用のはさみを使うため、思うように切ることが出来なかったのである。すごく困っている私を見兼ねた先生は、「はさみは右利き用しかないから、右手で使うようにしてね」と言った。おそらく、先生は世の中に左利き用のはさみがあることを知っていたけれど、右利き用が主流なため、私にそう言ったのだろう。しかし、幼い私は自分自身を否定されたような気持ちになった。大げさ化もしれないが、私にとって先生の言葉は、「左利きはダメだから、右利きになりなさい。」と言われたような気がした。これが、私が左利きとおうだけで悲しい思いをした最も古い記憶である。

 また、新聞記事には、計算ドリルで解答欄が右側にあるので左利きの人は答えを書く度に腕を上げて式を確認しないといけないとう事も書かれていた。小学生になると、同じような経験を私も毎日のようにし、不便を感じていた。また、習字でも、先生に右手で書くように言われ、右手で書く練習をした。書くことが増えて、左利きの不便を感じる機会も増えた。その頃は、幼稚園での記憶や今までの様々な出来事により、「なぜ、自分は左利きなんだろう。右利きだったらこんなに苦労しないで済むのに」と左利きであることが嫌で仕方がなかった。しかし、練習した甲斐があり、今では右で上手に字が書けるようになった。また母から、「右も左も使えるようになって良かったね。右脳も左脳も両方使われるから良いことだよ。すごいね。」と言われ、とても嬉しかった。それから今までの考え方が変わり、左利きだということを自分の一つの特徴として捉えることができるようになった。

 私は右手も使えるようになったけれど、利き手が左の人間、左利きということに変わりはない。だkら、やはり筆記する時などに使い易い左手である。右手だと速くきれいに書くことができない。高校生になって現在でも、横書きされた数学や英語の問題を解く時は、手で問題を隠してしまうので、とても不便である。つまり、左利きの人が右手が使えるようになっても、左利きとう事で被るデメリットがなくなくわけではないと言える。

 では、左利きの人は右利き用が主流であることに対して不満を持ち続けながら生活していかなければならないのだろうか。記事の最後の方にこんなことが書かれてあった。「道具は、左利きでも右利きでも高齢者でも子供でも使いやすくすることは可能である。それがデザインの力だ。その最初の一歩は気付くことと。私はこれを読んですごく納得した。そもそも、右利きが主流であるという事は、右利きの人が使い易いように道具がデザインされていることである。とすれば、さっき言ったように、左利きの人が使い易いデザインも作ることが出来るとうい事になる。デザイン次第でどうにでもなるのだ。また、左利きは少数と言われているが、十人中一人の割合で左利きが存在する。私の周りにもたくさんの左利きの人々がいる。その人達も私のようにきっと困っている。その事を右利きの人達に気付いてもらうのが大切なのである。右利きの人はよく「右も練習するから両方使えるようになっていいなあ。」とか言う。確かに、右も左も両方使えるようになることは利点があるとも思うが、右利きが主流なだけで左利きの人だけが不便になるのはおかしいし、早く多くの人が右利きだけに偏った社会は、おかしいという事に気付いて欲しい。もし、左利きが社会の主流だったら、右利きの人にも私の言うことがわかるだろう。

 人間は社会の中で、いつも主流の側にいられるとは限らない。よって、少数派が感じる苦しさや大変さを、当事者の気持ちに寄り添って気付く事が不可欠である。工夫をすれば、誰も不満を感じない方法があるはず……その糸口は、小さな“気付き”から始まるはずだ。

入選

「孤城の朝」

県立美来工科高校 三年安慶名和人

 以前、テレビニュースで、「朝の読書」を実施しているという小学校が紹介されていた。朝の会の時間に全校生徒が、十分間黙々と読むそうである。今回は、この出来事を通して本の魅力について考えたい。

 人が、初めて「本」に触れるのは、昔話の絵本などを、母親や保育士などの肘に座って「むかーしむかし」と話してもらう時ではないだろうか。

 例えば「桃太郎」を読んでもらっている時は、桃から男の子が生まれてくる場面に差し掛かると、「不思議だ」「面白い」といった疑問や純粋な楽しさがある。また、サル、イヌ、キジを連れて鬼と戦う場面では、「桃太郎がんばれ!」と物語の中で、自分も一緒に参加して戦っている気分になり、最後には「桃太郎はお爺さんお婆さんと一緒に何時までも仲良く暮らしましたとさ。めでたしめでたし。」と、双方満面の笑みで話を終了したと思われる。

 今でこそ、「『桃太郎』なんて、陳腐で、誰でも知っているつまらない昔話だ。」と一蹴したりも出来るが、誰しもが体験したであろう初めての「桃太郎」はきっと、感動に満ち、興奮を喚起させるものであっただろう。

 長い年月の中で、幼いころの記憶は、曖昧になったり消滅したりするというから、幼い頃の自分の記憶が未だに残っているという人は少ないだろう。しかし、その人の読書歴を突き詰めていけば、いやに起承転結のはっきりした、勧善懲悪で情緒纏綿な昔話に漂着するはずである。

 何度も桃太郎を読んでもらったあと、即ち自分で読むという体験をするのは、幼稚園から小学校に掛けてのことだろうか。その時は児童指定の、いわば絵本と小説の融合したような文学書を読むと思われる。この時、昔話を人に読んでもらったときとの主な違いは、後者が自己完結型であることである。

 前述の、誰かに「読んでもらったとき」には、「何其が何処で何をして如何した」という文章、つまり名所を、子供は、大人におんぶしてもらって歩いて、「楽しいねぇ。」「面白いねぇ。」と喋りながら、所々の名所を巡り、万人が同じような感想を持つように計算された、真っ直ぐに引かれた道の上をゆっくり「歩かされた」のである。

 自分で物語を読むということは、自らの足で、物語の筋道を歩き、名所の各所で、自分なりの見解、様々な情緒を感じながら読み進めていくということだ。これは、歩かされた物語よりも自立した、歩く読書と言える。歩く読書は、未来の読書……つまりは机上で本を広げて黙読することである。

 この頃から本来の読書というものを経験していくのだが、この地点で「本の虫」になる人間と、そうでない人間に分かれる。歩く読書は、孤独である。以前のように読んでくれる人間、一緒に一喜一憂する人間がいないとう状況は、或人にとっては耐えがたい苦痛を感じるのだろう。

 冒頭の、「朝の読書」について言えば、この活動は、先ほどの読書が敬遠される理由として挙げた孤独感を解消するものである。集団社会の現代を生きる上で、皆と同じことをして安心を得る精神構造は、必須のスキルであるから、子どももご多分に漏れず集団読書を楽しんでいた。しかし、それは本来あるべき読書、つまりは歩く読書でなく、歩かされた読書と殆ど同じことである。まだ、大人の肘の上に座っている。それは読書ではない。

 本の魅力とは、渺々たる砂漠に一人さまよっているような孤独感の中で、貪欲な知的好奇心が満たされていく所にある。この無人島の孤城に形容されるような孤独感が、読者の心を苛めるのだ。集団社会の現代において、この孤独感は苦痛を伴うものである。読書は無限に湧き出る欲求の中で、孤独感を感じつつ行う。そうしてどんどん読書の深みに嵌るとそれに反比例して本が孤独感を馴致させる。「桃太郎」を読み、意味を教えてもらっている頃と違い、物語を吟味し、評価できる慧眼を研鑚していく。

 読書は自発的でなければならない。自分の足で歩かなければならない。最初は路頭で茫然自失となるかも知れぬ。それと比べると、大人の肘下は温かいものだ。しかし、歩くのを恐れては、いつまで経っても歩かされる読書をする羽目になる。

 朝の読書は、歩く読書の入り口としては機能しているかもしれない。しかしそれが最終的な本来の自立した読書ができる人間を育成する事ができるかどうかは、悉皆児童に因るものではないか。それを子どもが理解できれば「朝の読書」という集団社会の投影のような取り組みは無くなるはずである。

入選

「本の魅力」

    県立首里高校 二年玉城真紀子

 本は人に似ている。一冊一冊に個性がある。私と気の合う本があれば、気の合わない本もある。気の合う本は私に新しい世界観を示してくれ、どんどん私の心に根付いていく。付き合ううちに更に興味を持って好きになる友人のようだ。一度読んで心の中に残しておいた本を、時間をおいてまた繰り返し読むことで新たな魅力を感じた本がある。

 『青の炎』、最初、この本を読んで私は混乱した。正義とは何か、善悪の境界線を見失った。「人を殺すことは悪いことか」と問われば、大半の人が「悪いことだ」と答えるだろう。しかし、愛する人を苦しめる憎い人間であっても殺してはいけないのだろうか。愛する家族を守るため、傍若無人な振る舞いで家族を苦しめる男を殺すことは悪なのか。結果から見れば、殺した側は加害者、殺される側は被害者ということになる。しかし、本を読みながら私も、その男(被害者)のあまりにもひどい仕打ちに「そんな奴、殺してしまえ」と思ってしまった。そう考えた自分に私自身も驚いた。それまで「死んでもいい人間などいない」「かけがえのない命」ということをたくさん学んできた。本当に死んでもいい人間はいないのだろうか。

 もちろん、人には誰だって欠点や短所がある。言葉では理解してもその短所や欠点がいつも受け入れられるわけではない。互いに嫌ったり、憎んだりすることが起こる。誰の身近にも起こり得ることだ。そんな時相手がいなければ良いのにと思うことはないだろうか。憎い相手の存在が消えることで、自分の気持ちが満たされると考える人は少なくないだろう。怒りを表面に表さなくても心の内に秘めながら、青い炎を燃やしているのではないか。相手を殺害とまではいかなくても、存在の消失を願ってしまうだろう。つまり、「死んでもいい人間がいる」という考えは悪であり、肯定すべき考えではないと思いながらも、人は時にそう感じてしまうのだろうと思えてきた。人を愛する美しい心だけではなく、憎んでしまう恐ろしい心と混在しながら生きているのだろう。そして時にその憎しみの炎がその人を変え、つき動かすほどの力になるのだろう。

 母と妹を守りたくて犯した犯人は「悪」なのか、「正義」なのか。主人公は、殺人を犯した点を除けば強い正義感の持ち主だった。そんな彼が犯罪者で「悪人」と呼ばれる人間になることがとても悲しかった。できることならば殺害以外の手段で制裁を加えて欲しかったと私は思った。そして、最後に主人公は「明らかな自殺」でない方法で死を選ぶ。安らかな道が「自殺」というのは不思議ではあるが、彼なりの彼への「正義」のようだった。自分のとった行動を「家族のために犠牲になったのではない」と言っていた。私には彼を自分の中の「正義」を貫いているよう感じられた。

 二年前この本に出会い、悲しいけど心に残る本だった。中学生だった私には釈然としない悩める本でもあった。その後映画化されたのを知りそれも観た。やはり、悲しい結末だと思った。そして、また、再びこの本に向き合った。

 私は本に振り回されているのではないかとふと思った。一行、一行の魅力に取り付かれ嬉しくなったり、悲しくなったりする。空想の世界に引きずり込まれて、とてつもない怒りや悲しみ、私自身が経験したことのない様々なことを繰り広げている。そして、いくら私がいろいろ思ったところで、私が読むごとに登場人物に身近なことをこうじてきていても小説で私ができることは何一つないのだ。私が彼の心に触れることは絶対あり得ないし、ストーリーの進行に影響することもない。そう、それは書き上げられた本の世界だからだ。単純に愉快な楽しい本に出会えたなら、気分軽やかになり得した気がする。一方で、悲しく重い本もある。出会って読んでしまったから感じてしまう、切なさ、歯がゆさ、そんな煩わしさに振り回されながらも手にしてしまうのが本の魅力なのだろう。いつでもページを開けば同じ時、同じ場所で同じ結末を迎える。登場人物も歳をとることなく、変わることもない。同じ本なら決して変わることのない文章があるのだ。でも、読んでいる私は少しずつ変わっている。ストーリーを知らずに読んだ一回目。ストーリーを知りながら読む二回目。最初は暗闇で凛として燃える暗い青の炎のイメージだった。今度読み返したら「脳裏に燦めく青の炎」という言葉から少し爽やかな感じに変化していた。小説は実際に行動してはいけないことや、私達の心の底を代わりに映し出してくれたものだと思った時、私の心が軽やかになったのかも知れない。

入選

「メールと私」

昭和薬科大学付属高校 &ロ美月

 現在、多くの日本人が携帯電話やパソコンを所持し、メールというシステムを利用している。私もその中の一人である。しかし、その一方で、このメールの普及によって、日本人の言葉に対する意識が低くなってきているというように、メールを問題視する人もいる。本当に、メールは現代人に悪影響を及ぼしているのだろうか。

 まず、こういった問題について、たびたび手紙がメールと比較されることがある。手紙を書く際、人々は言葉を実際に手で書くことでそれに時間をかけ、言葉をかみしめながら書くことができ、さらに、受け取り側も書かれた字をかみしめながら読むことができる。これが手紙の醍醐味であり、確かに、メールが非常に普及している現代では、こういう体験をする機会が減ったといえるかもしれない。ただ、ここで私が言いたいのは、メールはそのように言葉を贈ることを重点に置いて発達してきたわけではない、ということである。メールとうシステムは、情報の伝達、コミュニケーションを簡単かつ速急に行えるようにするために発達してきたものだと思うからである。そして私は、メールはその目的を達成しているといえるとも思う。現在、日本にはたくさんの「ケータイ依存症」の人がいるが、これはコミュニケーションを簡単かつ速急にとれるようにしょうと努力した結果が、人々のコミュニケーションのとり方を変化させ、少しの間でも返事がないと孤独に感じてしまうという、誰も想像できなかったような出来事を引き起こしたのだと思う。また、時代の流れで社会のあり方が変化していったことが追い風になって起こったとも思える。これは決して、テクノロジーの進化の失敗ではない。ただ、目的は達成したが、思わぬ副作用が働いてしまっただけなのである。

 また、現代における人々の言葉を贈ることに対する意識が低くなったというのは、根本的に間違いであるとも思う。メールがこんなに普及している今、未だに手紙やメッセージカードは普通にどこにでも売られているし、年賀はがきも数こそ昔に比べれば減ってはいるものの、毎年発行され、当たり前のように贈られているのである。これは、まだまだ現代人が言葉を書いて贈るということの魅力を忘れていない証拠であるといえる。また、ちょっとした用事はメールで済ませても、お正月は絶対に年賀状を贈るという人は決して少なくない。これもまた、日本人が文字を贈る価値というものを知っているがゆえなのである。私も、普段は手紙など改まって書くことなどめったにないが、年賀状は一応手書きのメッセージを添えて毎年贈っている。やはり、メールでただ打って送信するのとは違った、アナログの温かさを感じるからである。

 だからといって、デジタルで人の思いが伝わらないというわけでもない。メールで打ったからといって、自分の伝えたいことが伝わらないか、といったらそれは全くのウソであるというのは誰でもわかるだろう。言葉を表す手段がどうであれ、書いた内容はきちんと相手に伝わることは間違いないのだ。ただ、それが人の手によって文字となると、不思議とその書いた人のことを文字から考えたり、特別な何かを感じたりするものである。そういったプラスアルファを自然に付け足すのが手書きの優れているところで、メールが出来ない数少ないもののひとつである。しかし、メールは先ほども述べたように、本来は情報の伝達をすばやく行うための手段であり、そこには贈り主の感情を読み取る必要性などないのである。

 これまでいろいろとメールの存在を擁護することを論じてきたわけであるが、素早く、簡単に言葉を伝えられる面以外においては、やはりメールは手紙には勝てないし、メールの普及は、人々から言葉をじっくりと時間をかけて扱う機会というものを奪ったものであると思う。ただ、私はむしろ、メールが登場したことによって、人々は文字を書いて、言葉をかみしめるということが、いかに特別なことであるか、ということを再確認させられるようになったのではないか、とも思うのだ。例えば、最近の国語の教科書では、言葉の重要性について論じている文章をよくみかけるが、これは、人々が言葉に対して関心を持ち、言葉がいかに大事であるかを認識してきていて、それを後世に残していきたいと思っているからこそ起こることではないだろうかと思う。そして、このメールと手書きの両方が存在し続ける限り、言葉がいかに重要で重みのあるものかということを、人々は絶対に忘れることはないのであろうと思う。

入選

 「言葉の力」

    県立首里高校 二年下地 花歩

  

 「ありがとう」「大好き」「ステキね」私はこういう言葉が苦手です。人に言われて不快を感じるのではなく、私が誰かに向かってこういった良い意味の言葉をかけることが苦手なのです。

 その逆に「きもい」「嫌だ」「むかつく」私はこういった類の言葉が得意です。時には人を傷付け、不愉快にしてしまったのではないかと後悔することもありますが、軽い気持ちで習慣的に毎日使っています。高校生という時期のせいもあるかも知れませんが、私以外にもこういう乱暴な言葉遣いの人をみかけます。

 私は、「いつもありがとう、大好きだよ。」本当はそういう優しく美しい言葉をいいたいのです。心ではそう叫んでいます。ですが実際に口に出てくるのは正反対の意味の言葉です。幸いにも私の周りの人たちはみんな心優しく穏やかで、私の心ない言葉も優しく受け流してくれます。私が本心から言っているのではないことや、私が素直に気持ちを伝えることが苦手な照れ屋なんだということを、みんな理解してくれているのです。本当に優しい人たちに包まれて私は幸運だと思います。でもそんな環境に私は甘えていました。いけないと思いつつも「みんなわかってくれているから大丈夫」と勝手に思い込み、乱暴の言葉遣いを直す努力もしなかったのです。そんな甘えは、深い後悔となって私自身にはね返ってきたのです。

 それは大切な人との別れでした。人と人との別れはいずれやってくるものです。そのことを私は覚悟し心の準備もし、淋しいけど仕方のないことだと割り切っていました。でも、日に日に後悔がふくらんできたのです。いつも投げやりで、乱暴な言葉遣いをしていた私は大切な人に「ありがとう」の言葉を伝えていなかったのです。どうして別れの前に自分の言葉で本心が言えなかったんだろう。もし私が普段から素直に本心を声に出して言うことができたなら、こんな後悔はなかったのです。もう直接「ありがとう」を私が伝える機会は永遠に失われてしまったのです。

 言葉とはいったい何なのでしょうか。本来なら自分の意志を相手に伝えるはずのものなのに私の場合は、ほんとうに思っている意志を伝えるどころか、自分の話す言葉に邪魔されてしまいます。

 言葉とはいったい何なんなのでしょうか。人と人の関わりを良くするためのものなのに、私の発する言葉は人と人の関わりを良くするどころか、自分自身すら嫌悪させてしまいます。

 こんなことになるなら言葉を発することを止めよう、何も話さないでいよう、何度も思いました。でもそういうわけにもいきません。そんな悩みを抱えながらも私は気づいていました。本当は言葉の問題ではなく、私自身の問題なんだと。言葉は必要なものです。ただそれを上手く伝えきれない、未熟な私自身に問題があるのです。

 でも「人生に無意味なことなんかない」この言葉が今私を支えています。大切な人との別れも、自分自身の悩みも、全部私に必要なことなんだと思います。素直な自分の思いを伝えなければならないこと、言葉の大切さを知らせるために、乱暴な言葉遣いを意識させるために起こったことなんだとおもいます。

今私は、意識的に書くことに挑戦中です。直接口で言うことが苦手なら、文字で書き、メールで思いを表現する方法もあったのです。本当は口下手な私にはその方がずっとよかったのです。もともと面倒くさがりの性格もあって、毎日スラスラ書くというわけにはいけません。かくことは話すことと違ってすぐには言葉がでてきません。少し考えて文字になり、その文字がだんだん増え長くなって私の考えを表す文になっていきます。話し言葉がすぐに消えていくのに、文字はそこに残っています。そして残った文字は、もう一度、二度と読み返されます。時には消しゴムで消されて

書き直され、新しい文字へと生まれ変わったりします。乱暴な言葉を発するのは簡単でも、手間がかかるので少し慎重になれていいのかもしれないと思いました。

優しい言葉をかけたり、思ったことを曲げることなくスラスラ相手に話し言葉で伝えたりすることは、今の私にはまだ難しいことです。でも、伝えたい言葉があるのに伝えられない後悔は二度としたくないです。言葉の大切さ必要性を意識している今だから、書き言葉という文字の力を借りて、私を包んでくれる周りのみんなに伝えます。

「心からありがとう。みんな大好きです。」

入選

 「本が生み出す風景」

県立真和志高校 二年 伊波 希

本とは何か。そうきかれれば私はこう答える。「本は私にとってなくてはならないものだ」と。私が初めて絵よりも文字がメインの「本」を面白いと感じたのは小学校三年生の時だった。高学年の姉を待っている間の暇潰しにと借りた、ある児童向けの本。私はその本を読んで、生まれて初めて周りの雑音が聞こえなくなるくらい、時間すら忘れて集中した。文字の量も本の厚さも気にならなかった。

その時知った本の面白さと読み終わった後の達成感、充実感は今でも思い出すと鳥肌が立つくらい鮮明に覚えている。

本の面白さを知ってから、私は年齢を重ねるのに比例するように本を読みだした。いつの間にか、気がつけば押絵もない、文字ばかりの本ですら楽しく、深夜まで読み更けるようになった。親の声も、姉達の声も、飛行機の騒音ですらまるで空気の流れる音だと思うくらい、私は本に夢中になった。

本には、たくさんの登場人物たちが生きている。本の書いた人の、たくさんの世界がある。その一ページ一ページに住む、たくさんの人々の気持ちや、言葉がある。それらを傍観したり、主人公たちと同じ目線で見たりできることが、私の喜びだ。私が考えもしないことを考える人がいる、私が思わないことを思う人がいる。それだけで私の胸は高鳴り、早くつぎのページに進みたいと焦りが生じる。

また、本を読むことでいろいろな知識を得ることも出来た。人の感情の変化、表現の仕方、専門的なこと、遠い昔の話。ミステリー小説も、神話も、幻想小説も、全ての本から知識を得る。私にとってそれは、何ともいえない満足感をもたらすのだ。

まるで狂気じみたきちがいのようだと思うこともあるが、本をたくさん読むことは自分のためだし、他の人からはおかしく見えてもどうせやめられないんだと開き直る。私にとって本はすでに私の人格を作る一部だといっても過言ではない。

そんな風になるほど本を読んでいたせいか、私は日本語の表現がたくさんあることに興味を持った。例えば、比喩にも直喩と暗喩がある。自分を風に喩えることができるのだ。独特の擬音も、その場の空気を感じさせる言葉も、一つ一つが日本の文化を感じさせる。それらを理解すると身の周りの風景もいろいろな視点で見ることができる。すると、自分が木なら、今こう思うんじゃないか、私はこんなものに似ているんじゃないか。何気なく使う文明が出来る前はこうだったんじゃないか。そんな風に、たくさんの考えが浮かぶのだ。妄想癖だと言っても間違いではない。それほどに、新しい考えが浮かんでは消え、生まれては弾けてゆく。それは、一方通行のように、ある一点からしか物事を考えられなかった私にとって不思議と楽しいものだった。

このように、本は読む人の感じ方、世界観により、その人自身にかなりの影響を及ぼすものだと思う。あくまで私自身の経験だが、本を読んで自分が変わる、見える世界が広くなる、というのはとても素晴らしいことではないだろうか。

目には見えない、耳でも聞こえない、そんな人間の感情を本で知り、自ら感情より複雑で豊かにしていく。一つの価値観に囚われず、様々な視点でものごとを考えられるようになる。それらは本との付き合いで学んでいくものだ。私はそう思う。

インターネットやメールが普及して、より一層伝わりにくくなった個々の気持ち。その気持ちが薄く、浅い人間になってしまい、誰もが他人を理解できなくなることはとても恐ろしいことだと思う。今、目に前にあるものを、見た人自身はどう思ったのか。それを残し伝えるために、もっと人間らしく複雑で神秘的な世界観を養うべきではないだろうか。他人にとのコミュニケーションはとても難しいものだ。先入観を捨てるのも難しいと思う。それでも、だからこそ、たくさんのことをわかり易く教えてくれる。そんな素敵な本と出合い、読むべきだと思う。

たった一冊、素敵な本と出合う。それだけのことが大切かも知れない。その本から何を学ぶかが、人と本との関係を変えるのかも知れない。

私たちは物事を考え、それを他人に伝えることが出来る。その伝える媒体の一つが本だ。私たちは本を読み、その魅力を知ることで、多くのことを学べるのではないだろうか。たくさんの書き手や登場人物たちを通じて、多くを学ぶべきではないのか。これまで私の世界を広げ、私自身を成長させてくれた本たち。その魅力を知れば知るほど面白くなっていく。私はもっと、本を読んで、学びたいことがあるのだ。

最後に、あなたにとって本とは、読書とは何か、考えて欲しいと思う。



2010年度 文字・活字文化大賞 講評

審査委員長・津覇實明

中学生の部

玉城愛美(まなみ)さん―詩を支えとして言葉に出会い人とつながっていく過程がよく書かれている点を高く評価する。意見文になっているかという疑問も出はしたが、詩への熱い思いが勝った。

仲村愛実(まなみ)さん―インターネットの情報と新聞記事の信憑性を比較して論じている点と新聞への提言が力強かった。

山城南希(なつき)さん―本との出会いの軌跡が自分史と重ねて丁寧に書かれている。しかしその一方で体験文になってしまっている。言葉でつながる感動を一般化してまとめるとよい。

岩崎心(こころ)さん― 意見文として高く評する一方書き手の感動が伝わってこないという評価もあった。文字の大切さを発見した驚きが言葉の形を取りきれていないのが残念。

吉岡聖章(きよあき)さん―意見文としての書き出し・問題提起は素晴らしい。結論も上手くまとめてある。切り口が新鮮であればなお良かった。

西原裕希(ゆうき)さん―賛否両論・議論白熱。推敲していない点を減点するか個性を重視するかで分かれた。最終的には、型にはまらない書き方と伸び伸びとした個性を評価した。

安里紗彩(さあや)さん―結論が意見文として整っている。しかし段落分け(書き出しの段落)が600字を越えてしまったのが残念。書くことに熱中する余り読みやすさの配慮を忘れたのかもしれない。


上原理緒奈(りおな)さん―意見文の構成になっており展開はよいものの、誤字と不適切な表記があったので厳しく減点した。
根間恵美(めぐみ)さん―本の魅力がよく書けている点では異論がない。しかし話題が広がりすぎて逆に内容のインパクトが弱められたのではないか。

徳村友里(ゆり)さん―文字の意味を考え書く姿勢が説得力ある文体で綴られている。結論が力強くまとめられていればよかった。

當間比呂(ひろ)さん― 自主的に本に親しむ重要性と読書で身についた知識が脳裏に浮かぶさまがよく書けている。書店・図書館の魅力についても言及しており、視点が新鮮で高く評価する審査員もいた。後半の体験のまとめが物足りなかった。


湯田桐子(きりこ)さん―評価は平均していた。しかし、宮沢賢治作『注文の多い料理店』を「値段と利用価値だけで判断する主人を怒った動物達の逆襲に合う物語」と評価した鋭い視点に驚かされた。

眞榮城のぞみさん―   自分の気持ちを込めて手紙にしたためる意義をメールと比較して論じている。段落の展開に飛躍があったのが残念。次回は構成を意識して書いて欲しい。

高校生の部

仲本明希(あき)さん― 二人の審査委員が満点の10点。訴える力が最も強かった。

砂川さやかさん―字が綺麗で読みやすい。バリアフリーの概念を沖縄の長寿社会と結びつけて論じている点が新鮮。

島袋晃一(こういち)さん―構成がしっかりしており論の展開がスムーズ。新聞を丁寧に読み込んでいる。活字離れに対する厳しい意見が評価された。

徳浜くるみさん―高評価と厳しい評価とに分かれた。中国に対して何ができるか。『「経験」を援助できる』という一節は素晴らしいの一言。残念でならないのは商品取引に関して中国側とのやりとりに触れていないところ。それがあればもっと相互理解の重要性が伝わったと思われる

坂口朱里(あかり)さん―「デザイン フォー レフティー」タイトルが秀逸。「左利き社会はつらいよ。」視点が新鮮。マイノリティーへの配慮を忘れがちなマジョリティーへの批判にもなっている。


安慶名和人(かずと)さん―例の展開は見事。但し問題提起に対する結論は好ましいものではない。また難語の使用に評価が分かれた。

玉城真紀子(まきこ)さん―内容的には文句無し。哲学的考察にもなっている。また本の魅力が自身の成長とともに書かれている。エッセイとしては秀逸である。しかし小論文に届いていないという意見が出た。

&ロ美月(みずき)さん―小論文としての展開力は見事。問題提起に続いて手紙との比較もよく段落間のバランスもよい。問題の切り口がもっと尖がっているとよかった。

下地花歩(かほ)さん― 私のお気に入り。内容は抜群。まっすぐに迫ってくる。結論も好ましい。しかし作文ではないかと注文がついた。

伊波希(のぞみ)さん― 表現のなかに世界観や価値観を読み込むほど本をよく読んでいる。しかし、本の魅力に囚われすぎて体験文になってしまったのが残念。





第5回意見文・小論文コンクール
27日(土)印刷団地で授賞式

■意見文・小論文コンクールは、来る27日(土)午後2時から沖縄印刷団地協同組合のホールで入賞者の授賞式を開きます。10月23日に1次審査会を終了、11月6日に最終審査を予定いたしております。
 今年は、例年以上の作品が集まり、審査会も臨戦態勢で審査を取り組んでいます。審査が終了しますと、上位入賞者の新聞発表、作品収録集の製作、続いて特集紙面での作品公開、入賞者の授賞式を予定しております。
 改めて、作品を応募いただいた生徒のみなさん、学校現場の先生方にお礼を申し上げます。



第5回文字活字文化大賞意見文・小論文コンクール
予想を予想を超える142点超える142作品が届


■意見文・小論文コンクールは、10月9日(土)に締め切られ、昨年を大きく上回る142作品が事務局に寄せられました。内訳は、中学が93点、高校が49点。ちなみに昨年は、中高校合計で55点でしたので、3倍もの作品が届きました。
 今年は、文字活字文化振興法が制定されて節目の5周年ということもあり、全国各地で様々なイベントが繰り広げられています。本コンクールも文字活字文化振興法に伴う「文字・活字文化の日」を受けて、スタートいたしました。全国的な盛り上がりの中、本事業も5年目にしてやっと県民に認知されたものと感謝いたしております。
 共催された県、県教育委員会、学校現場で応募業務に携わっていただいた先生方、協力団体の沖縄県高校国語教育研究会、協賛の宮脇書店に厚く御礼を申し上げます。
 作品の集計と同時に10月下旬、11月上旬の1次、最終審査会に向け取り組みを進めております。
 審査の結果が決まり次第、沖縄タイムス紙上、本HPでもお知らせいたします。



再度の官公需適格組合認証を取得

■沖縄印刷団地協同組合は、8月26日付けで内閣府沖縄総合事務局から官公需適格組合に適合していると認められ、その証明を取得いたしました。平成19年度の初回に続き2度目の取得です。今回も沖縄県中小企業団体中央会のご協力をいただいての取得でした。県中央会に感謝申し上げます。
適格組合の取得を通じ、証明基準に恥じないよう協同組合として引き続き努力してまいります。


沖縄総合事務局経済産業部の比嘉満・中小企業課長(左)から官公需適格組合の証明を受ける沖縄印刷団地協同組合の宮城剛・理事長



第5回意見文・小論文コンクール

応募は、9月6日(月)からスタート
全応募者に図書カードプレゼント
(募集要項のダウンロードはこちら)
■5回目を迎える沖縄県青少年を対象にした文字・活字文化大賞意見文・小論文コンクールの募集が、9月6日(月)からスタートしました。締め切りは、10月9日(土)までです。
 今年は文字・活字文化振興法が制定されて5年目に当たることから文字活字文化推進機構では、「国民読書年」と位置づけ、全国で各種催しが開かれています。当実行委員会でも節目のコンクールですので、例年以上に多くの作品が寄せられることを願っています。
 文字・活字文化大賞実行委員会は、沖縄印刷団地協同組合と沖縄タイムス社の主催、沖縄県、沖縄県教育委員会共催で「文字活字文化の日」を記念して実施しています。コンクールは、青少年に自分の考えや意見を論理的に述べる、書く能力の学習を奨励することがねらいです。
 今年は、沖縄地区・宮脇書店さんが協賛していただき、入賞者以外にも全ての応募者に図書カード(500円相当)をプレゼントすることになりました。

 県内の中学生、高校生を対象に意見文と小論文の部門があります。次のテーマから一つ選んで、考えや意見を述べて下さい。

 「本の魅力」
 「文字・活字の力」
 「メールと私」
 「新聞で関心を持ったニュース」

@400字詰め原稿用紙(縦書き)を使用。
A中学生は原稿用紙3枚半ー4枚、高校生は4枚半ー5枚。題名、学  年、氏名は行数に含まれません。
B作品は直筆、パソコン打ちも可。
C応募は、学校ごととし、1校5点までとします。
D作品は、未発表のものに限ります(学校内コンクールは除く)。
E作品の著作権は、実行委員会に帰属します。

 募集期間は、平成22年9月6日ー平成22年10月9日(土)。

 賞は最優秀賞(文字・活字文化大賞)中高校各1点
    優秀賞(県知事賞)中高校各1点
    優秀賞(県教育長賞)中高校各1点
    優良賞(沖縄印刷団地組合賞)中高校各1点
    優良賞(沖縄タイムス社賞)中高校各1点
    入賞が中高校から若干名

  賞状と副賞として、図書カード(1万円ー2千円相当)を贈呈。
  応募者全員に図書カード(500円相当)、鉛筆などプレゼント。
  入賞作品集を各学校、関係機関へ無償配布いたします。

 審査、表彰式は平成22年10月ー11月の予定。

 応募先
 〒901−1111 沖縄県南風原町兼城577番地2F
 沖縄印刷団地協同組合
 「文字・活字b文化大賞 意見文・小論文コンクール係」
 
 協力・沖縄県高校国語教育研究会
 協賛・株式会社 宮脇書店

 後援・琉球放送、琉球朝日放送、NHK沖縄放送局、FM沖縄

 詳しい募集要項は、以下からダウンロードして下さい。
 

印刷団地の39期総会終了

■印刷団地は5月25日、第39期通常総会を開き平成22年度の事業計画や収支予算などを決定しました。また、役員の選任も行われ副理事長に光文堂印刷社長の外間政春氏を新しく選出しました。宮城剛理事長(サン印刷社長)は、再任されました。前副理事長の久場融氏(高速印刷)は退任しました。
 総会の後、各社社員も参加し懇親会を開き、新しい年度の事業開始にあたって団地組合の結束を誓いました。宮城理事長は、「印刷機器や業界を取り巻く数々の変遷の中で、新しい情報をいち早くキャッチして対処し今日の各社、組合がある。今後もより厳しい環境が予測されるが、団地組合の団結で乗り切っていきましょう」と挨拶しました。
 事業としては、官公需適格組合の更新年度を通じ、上部団体や連絡協議会と連携して受注事業の推進をはじめ、社会貢献の一環として「文字・活字文化の日」を記念した「第5回県内中学高校生意見文・小論文コンクール」事業を引き続き実施します。

 役員選任は、次の通り。
 理事・宮城剛、外間政春、久場ふさ子(専務)、小濱保(グローバル印刷)、大嶺亮一(高速印刷)、呉屋政彦(うるま印刷)、外間政朝(沖縄製本)。監事・福山保(福山商事)、新垣智(沖縄県印刷工業組合)。(2010・5・28)
   

1月4日から業務スタート
今年もよろしくお願いいたします

■新年は1月4日から業務をスタートいたしております。寅年の今年は、昨年にもましてパワー全開で事業推進に取り組んでまいりたいと思います。旧年同様によろしくご支援をお願い申し上げます。









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