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沖縄印刷団地協同組合WEB

30周年座談会

part 2

団地内食堂が評判に

古 堅 福利厚生事業は団地組合での唯一の従業員に対する大きな常設委員会で、多くの活動をした実績があります。移転当時は周辺には全くというぐらい食堂らしいものはありません。むしろさとうきび畑が多かったという状況でしたので、団地内にはどうしても食堂が必要だということがあり、団地建設の基本計画の中に盛り込みました。
 当初は大勢の従業員が列をなし、利用していました。待ち時間の解消、メニューの研究とか、あるいは業者の選定やらいろんな問題もたくさん出てはきましたが、この福利厚生事業は大きな成果を納めたものであろうと思います。

司 会 のちにそれが評価されて労働大臣の表彰を受けましたね。

古 堅 労働大臣の表彰は沖縄県では第1号であると、聞いております。

司 会ところで、団地食堂の味はどうでしたか。

外間(輝) 営業をやっていたものですから、なかなか団地内の食堂に顔を出すことはできなかったんですが、特に沖縄そばはおいしいという評判でしたね。

照 屋 団地食堂は、100名余りが一堂に会して食事ができるということで、大会社に勤めているような感がしまして、大変嬉しかったですね。まずボリュームはあるし、そのうえみんなと一緒に食事ができるということで、大変おいしくいただきましたが、残念ながらなくなってしまったのです。当時としては非常に立派な社員食堂だったと思います。

与那嶺 私がびっくりしたのは、会社によって、休み時間が12時半から1時半までという変則があった事です。あれだけの人数が食堂へ一度に来ると、大変だという事でそうなったと思うんですが、うちの会社は、今でもあの時間をそのままにして12時半からなんですね。お客さんが1時になって電話がくると、「なぜ、電話を取らないのか」と、時々しかられています。いろんな会社の先輩方と食堂の中でお会いして教えられたことも多かったですね。なかには高速の仲宗根会長がそばを食べる時にはねぎを入れるなとか、その人たちの変なつまらない嗜好についても教えられましたし、大変いい社交の場でもあったと思います。

古 堅 団地内食堂がずいぶん評判になりまして、地域のお客さんもよく利用していただきました。まずボリューム、それから味も非常にすばらしいと、太鼓判を押されました。また営業の皆さんもお客さんを一人連れ、二人連れたりして、いろいろとこの食堂についての自慢話さえできるぐらいにもなっていましたね。

福 山 開業当初は、団地外からのお客も多く、とくに近くにあった那覇市の清掃組合からは、よく利用に来ていました。それに団地内では各社が料金の一部を負担していたので安くてボリュームのある美味しい食事が出来たので社員には人気が高かったですね。
 しかし、国道329号沿線の開発が進み、いろいろな食べ物の店も増えるとともに、外部からの利用客も減り、そればかりか団地内からも外へ食事に行くようになってきました。団地の食堂もだんだんとメニューの数も減ることになり、次第に経営が苦しくなり、それまで経営していた人がやめることになりました。
 当時、私が福利厚生委員長でしたので、なんとか継続をしなければと心当たりをさがし、やっと知人の砂川さんにあとを継いでもらって営業を続けてもらいました。
 しかし、時代の流れと言うか、いろいろな状況の変化で食堂の継続は出来なくなりました。平成2年をもって、長く続いた団地内食堂は閉鎖を余儀無くされたのですが、存続中は団地各社の社員の福利厚生の一部門として大きな役割を果たすことが出来たと思っています。

司 会 野球大会とかピクニック、あるいは年末チャリティーパーティー、成人式、集団検診、いろいろありましたが……。

島 袋 団地設立当時はいろんな活動が非常に活発だったような感じがいたしますね。ピクニックが数回あったのを記憶しております。新原ビーチにも行きましたし、それから本部で団地全体のピクニックをして、その後八重岳の中腹で成人式を行ったということがありましたね。
 あと、バレーボール大会もかなりあったように覚えておりますし、今の倉庫のところにバレーコートが2面あったのも覚えています。テニスコートもありましたし、団地は野球も強かったんじゃないですかね。印刷工業組合の主催でやる会社対抗でもかなり強かったように記憶しております。一度は観月会があって、カラオケのない時にカラオケ大会をしたという記憶もあります。

司 会 集団検診はいつの頃はじまったんでしょうか。

島 袋 記録を見ているとかなり早い時期からあったのはわかるわけですが、一般検診と有機溶剤検診がありました。ある時期、年2回ぐらいやっていたと思いますが、光文堂印刷も2回検診を受けていましたね。健康面では非常に役立ったと思います。

司 会 昭和48年8月から昭和52年11月まで、紙の購買事業を行っていますが、はじまるきっかけあるいはなぜ、4年間で終わったのですか。

外 間 中小企業団体中央会の指導により、組合は経済事業をやらなければ活性化できないということで紙の購買事業に取り組みました。多い年は1億円ぐらいの取り引きがありまして、非常に順調にいっておりました。しかし昭和48年といいますと、第一次オイルショックの時ですね。バブルが芽生えてくる頃でして、全国的に紙の需要は伸びる、そして値段は上がる、また時々は下がる。そういうふうに乱高低がはげしくて、3年ちょっとで終わったわけです。

古 堅 組合が紙の購買事業を行うには、窓口を一本化して効率的に事業運営をした方が良いということで、多くの紙問屋さんに入札をしてもらいました。
 そこで福山商事が落札しまして、それから紙の購買事業は運営されてきたわけです。ところが、復帰していろいろと世の中の状況も変わりまして、紙の流通のシステムなどが本土流通から容易に入ってくるような状況が出たわけです。そこでいつまでも窓口一本化で購買事業をしていることは、時代にあわなくなってきたのではないかという議論がはじまりました。たまたま規約外の取り引きをする脱落者も出ておりましたので、大いに議論を重ねた結果、もう中止しようということになったわけですね。

司 会 組合の大事な事業でありました金融事業ですが、印刷団地に移った当初というのは、いろんな面で資金が必要だったと思います。企業防衛資金というのがありましたが、その役割はどうでしたか。

企業防衛資金の役割


外 間 高度化資金を借入れしますと、組合が各社から徴収して、半年ごとにまとめて償還していくわけですが、12社のうち1社でも滞納すると、これが揃うまで払えず、延滞するわけです。幸いに私達、印刷団地は1日も延滞することなく今日まで支払ってきたわけですが、それには企業防衛資金が非常に大きな役割を果たしたと思います。これについては一番苦労したのが、現在の事務局長の久場さんだと思いますね。

久 場 企業防衛資金の積み立てを開始したのが、昭和50年の7月からで、5,000万円の目標額を達成したので、昭和56年4月には積み立てを終了しています。各社が急に手形決済資金が必要であるとかという場合に、金融委員会を開催して、積み立てした中から組合員に貸付するというかたちをとっていました。しかし、当初の目的を達成したということで、平成3年4月25日に組合員に払い戻しをしております。
 転貸事業は、昭和49年にスタートし、商工中金にある県の制度資金を利用した転貸資金だけをやっていたんですね。その頃は夏のボーナス資金と冬のボーナス資金、それから県の組織強化と設備資金ということで、この3種類の長期と短期の資金を組合員に貸付して、組合は1%の手数料を頂いていました。

司 会 各社の利用状況はどうでした?

久 場 夏季と年末資金に関しては、審査が厳しくて、ボーナス資金は夏冬あわせてそれぞれ8社ずつですね。組織強化資金であるとか、設備とかいう場合は7社なんですが、今の資金量からするとかなり少ないですね。長期資金はその頃は7社ですね。本格的に金融事業として動いたのが昭和55年に商工中金に2億円の根抵当を団地組合の土地と建物に設定してからです。あとで1億円が追加されています。
 その後に団地ローンが出るのですが、これは昭和59年10月に3銀行に2億円ずつの根抵当を設定し、スタートしました。初代の専務の新垣三津夫さんが退職して、海邦銀行から名城さんが専務で5月頃に就任されて、これを境に団地ローンが活発になりました。

外 間 事務局長から企業防衛資金の借入れ審査が厳しかったと言っておりますが、一部の組合員から、これは体力の弱いところが借りるので、5,000万円も集めてこれを貸した場合に誰が責任をもつかと、強く質問を受けたことがあります。しかしみんなでよくその企業のありようを見てやれば大丈夫だよと言いましたが、私も100%自信があったわけではなかったのですが、結果として非常によかったと思います。全く無事故で終わりましたから。

古 堅 団地ローンの目的と仕組みですが、団地に移ってきて、営業活動も活発になりまして、売り上げ、生産も相当伸びておりますから、資金需要も活発になるわけですが、組合員には担保として使える財産はないわけです。それで組合が窓口をつくって、一括管理をし、組合の土地、建物を担保に金融機関にローンの設定をしようということからはじまったわけです。当時は資金需要が旺盛でしたから、利用状況は大変よかったと思っております。

司 会 いろいろ勉強会などをやりましたが、財務研修会は各社の財務内容をオープンにして、みんなで検討しあうユニークな研修会だったと思いますが、これについて触れたいと思います。まず、どういう理由で始めたのですか。

古 堅 財務研修会の目的は、各組合員の会計年度が異なっているということがありましたが、国の助成を受けている関係上、会計年度をひとつに揃えて、正しい報告をしなければならないということがありました。それと各社の経理項目がバラバラになっていてはだめだということもあり、福税理士さんが指導いたしまして、各社の会計項目、勘定科目は統一するということではじまったわけです。財務研修会の内容は、各組合員の経営状況を組合が正しく把握しなければならないということもあり、いいところ、まだまだ指導しなければならないところ、いろいろ不統一があったものですから、それを統一するという意味からも会計事務、経理事務について重ねて研修をやったということです。

小橋川 第一回目の財務研修会が、昭和51年9月に本部グリーンパークホテルで開催されました。講師は、稲福正樹、新垣三津夫、久場篤氏らでした。研修会を終わってから新垣三津夫さんが「いい勉強になったでしょうか」というと、皆さんは何も言いませんでしたが、私は「全然わかりませんでした」とはっきり言いました。なぜかと言うと、大学の教科書を持って来て講義をしてもわかったものじゃない。だから「あなた方講師ももう少ししっかり勉強してくれませんか」と逆に私は彼らに言いました。その時は大笑いになりました。
 とにかく、高度の講習で専門的すぎてわかりにくかったんです。「わからん」と言ったのは私一人でしたが……。


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